8.第三次抗争期(逆転に次ぐ逆転)−歴史が回る時 −        目次へ   前へ  次へ
 

22.国学の高まりと完成
 徳川光圀の委嘱を受け『万葉集代匠記』を著した契沖(一六四〇〜一七〇一)は、真言宗の僧であった。彼は国文学研究に没頭し、多くの古歌・古典のうちに人間の性情の偽らざる流露を見いだした。そこから後世になって、儒教道徳、仏教道徳によって感情を押し殺すようになった経緯を否定し、人間のありのままの感情の自然な表現を評価した。彼の研究は多くの学者に影響を与え、国学の祖と言われている。この契沖の万葉学に接して、影響を受けたといわれるのが、京都伏見稲荷神社の神官である荷田春満だ。荷田は古神道の精神の解明に努めた。荷田春満(一六六九〜一七三六)に国学を学び、契沖にも私淑したのは、賀茂真淵である。彼は晩年に、『古事記』や祝詞の研究をとおして古道を明らかにする方向に進んでいった

 賀茂真淵の教えを受けた本居宣長(一七三〇〜一八〇一)は、、『古事記』の研究に励み国学を大成した。彼は天皇の尊貴性を明らかにし、日本の政治とは天皇のまつりごとであることの認識を示した。本居宣長に学んだ平田篤胤(一七七六〜一八四三)によって、復古神道が体系化された。復古神道とは、儒教や仏教の説を一切まじえない、日本固有の純粋な古代神の道を説く神道のことだ。篤胤は、神々の子孫である天皇への服従を説いた。彼は幕府の嫌疑にふれ,秋田へ追放されたが、人々の民族意識を目覚めさせて、のちの明治維新の原動力ともなった。
 国学以外の分野では、一八二七年に歴史家で陽明学者の頼山陽が著した「日本外史」が発行された。「日本外史」は、平安時代末期の源氏・平氏の争いから始まり、北条氏・楠氏・新田氏・足利氏・毛利氏・後北条氏・武田氏・上杉氏・織田氏・豊臣氏・徳川氏までの諸氏の歴史を、家系ごとに分割されて(列伝体)書かれている。簡明な叙述であり、情熱的な文章であった為に広く愛読され、幕末の尊皇攘夷運動や勤皇思想に大きな影響を与えた。

23.「第一次抗争期」との関係
 この一七〇〇年代後半から一八〇〇年にかかる国学完成の期間は、千年前の「第一次抗争期」においての、七八一年にはじまる桓武天皇による律令政治の再建と仏教の革新の期間に重なる。つまり、聖徳太子本来の律令政治へと革新するために、その柱となる精神思想を最澄と空海に託した期間である。藤原鎌足父子を象徴する豊臣氏を倒し築かれた、聖徳太子父子を象徴する徳川の幕府は、軍事力を背景にしてではあるが、太平な社会を築いた。そこで精神思想を育む学問が花開き、尊王思想が実を結ぼうとするまでになった。この時点で、天界側の巻き返しとして立てられた使命者・最澄と空海が登場した時代圏まで、社会環境としては天界側が押し返したことになる。
 そこで、この環境圏に再び、最澄・空海・泰範の使命を担うものが登場し、最澄と空海が分裂してしまった状況を元に返して、和にいたらしめることが必要となってくるのだ。さらに、太子父子を象徴する徳川も、藤原父子を象徴する豊臣を滅ぼしたのであって、和解したわけではないのだ。つまり、山背大兄王の使命を受け継ぐ者、蘇我入鹿の使命を受け継ぐ者、藤原鎌足の使命を受け継ぐ者が現れて、分裂せざるを得ない状況から和解しなければならないということになるのだ。
 それらの人物が登場して、一六〇〇年の関が原の戦いのように、天界と魔界ががっぷり四つに組み合う環境が出現するようになる。その出現の起点となる年は一八六〇年だ。次に、この一八六〇年について考えよう。

24.一八六〇年
 太子は隋・唐以降の中国では異端の思想とされた讖緯(しんい)思想を、政治理念として受けとめていた。讖緯思想は「緯書」の思想であり、「緯書」は孔子の作とされ「孔丘秘経」とも呼ばれた。「讖」は予言という意である。讖緯思想によれば干支の一回り六十年を二十一回重ねた一二六〇年を一蔀(いちほう)と言い、歴史のワンサイクルとする。
 推古九年、辛酉(かのととり)の年を起点として千二百六十年遡ると、紀元前六六〇年になる。この紀元六六〇年を「紀元元年」とする紀年法を太子は創ったのである。つまり紀元前六六〇年は日本最初の天皇である神武天皇の即位年となり、日本建国の年となる。
 紀元前六六〇年とはこのようにして作られた想像上の歴史の起点であり、本当の歴史が始まったのは、推古九年、つまり六〇一年である。そこからまさに律令国家に向けての建国が開始されたのである。太子が律令国家の建国を開始した六〇一年から、讖緯思想がいう歴史のワンサイクルが回った一八六〇年を、天界は、聖徳太子の意志を通して、再建の出発の時期として選んだ。歴史の本質まではいれば、歴史は釈尊が予言した弥勒仏の到来に合わせて動いていた。聖徳太子の意思も、我知らずに神の摂理と歩調を合わせていたのである。
 「第一次抗争期」においては、魔界が藤原政権を分裂の社会をもたらす布石として用いた。それと同じと言う訳ではないが、天界側においても、天皇が支配する国を理想としているわけではない。それは時代的に必要とされる手段の段階であって、平和な世界を実現するための一つの過程なのだ。そのことは、ここで言っておかなければならないだろう。

25.鎖国・魔界の攻勢
 一五九七年二月五日にキリスト教信者二十六名が長崎で処刑され、各地で多人数の殉教が相継いで以来、徳川家の為すことが神側の意図する方へと展開するようになった。それを魔が手をこまねいて見ていたわけではない。殉教によって、逆に追いやられてしまう事を知った魔は、キリスト教を断絶する為に鎖国をするようになる。

 1633年、徳川幕府は日本鎖国令を発し、スペインとの外交を閉ざした。全国に寺請け檀家制度を設け、全国民を仏教寺所属の信徒として登録させ、キリシタンを取り締まった。更に、5人組制度による相互扶助及び監視密告体制を作り上げた。イエスや聖母マリアの聖像を踏ませる「踏み絵」による摘発が続いた。家光はキリシタンを完全になくそうとしたのだ。 
 1637〜38年、キリシタン勢力による島原・天草の乱が起り、約4万人の農民が一 揆を起こし全滅した。原城でも信徒2万7千余人が籠城戦の末に壊滅したが殉教とは言えない。これをようやく平定した翌39年に、ポルトガル人の渡航を禁じた。それ以降、1639年7月に江戸でペトロ岐部(司祭)が殉教したのを最後に、キリスト教徒による日本での殉教は無くなった。魔界はこの時、再度日本の武力で朝鮮に攻め入り、キリスト教を一網打尽に出来ると確信したに違いない。ところが、魔も予期せぬところから、魔さえも救おうとする、神の愛の爆弾が、魔界の勢力に向けて投下されることになる。それは、聖徳太子の助言と守りの上で、都から東北に落ち延びた蜂子皇子がいたが、その皇子が開山した出羽三山において展開した事件であった。

第三次抗争期「明治維新」 1.霊性日本史

日本史における第一次抗争期で魔界側が勝利し、第二次抗争期にはいると歴史的史実は魔界の思うがままに動いていく。しかし、第三次抗争期に入ると天界側の巻き返しがはじまる。第一次抗争期に書き込まれた史実を見ると、霊性の動きも史実とともに読み取ることができる。それは霊的な使命を持つ聖徳太子や空海や最澄が登場しているからだ。しかし、第二次に入ると魔界の活動が表立って現われ、武力のぶつかりあいになってくるので、霊性の動きは読み取れなくなっている。考えてみれば、天界側の激しいまでの霊的な活動があってこそ、巻き返しが実現したはずだ。その霊的な戦いの記録を、霊性日本史と呼ぶ。聖徳太子から最澄・空海へと相続された使命は、最澄と空海の霊魂としての戦いと化し、崇高な慈愛と犠牲に向けての霊性日本史として史実を刻み始める。

最澄は比叡山の延暦寺に、「不滅の法灯」を灯した。その精神は次の言葉に凝縮されている。「あきらけく後の仏のみよまでも、光つたえよ法(のり)のともし火。」釈尊は予言的に次のようなことを語っていた。誤解を恐れず要約するので許していただきたい。「私の教えは時代の進展とともに形ばかりのものとなるが、後の世に弥勒仏が降臨し、仏の世界を創るだろう。」最澄は釈尊の予言を信じ、弥勒仏が降臨する時まで、釈尊の教えを絶やしはしないという決意を込めて、この不滅の法灯を灯した。その法灯が、山形の山寺に建立された立石寺に分けられた。織田信長の比叡山焼き討ちで、延暦寺の不滅の法灯が消えたが、立石寺の法灯から再び火を灯された。このことから、延暦寺の法灯と立石寺の法灯は兄弟関係にあり、両者一体で千年不滅の法灯を成していると言われている。また、最澄は聖徳太子の意思を受け継ぐと公言していたことと合わせて考えれば、不滅の法灯は釈尊の教えを信じ、聖徳太子の意志を受け継いだ最澄の、精神の象徴といっていいだろう。

最澄の魂は山形に明々と灯されていた。それでは空海の魂はどこに灯されたのか。

空海のといた真言密教の教えを、要約してわかりやすく書いてみる。大日如来の言葉である真言を聞き、身(体)・口(言葉)・意(心)のすべてにおいて大日如来と一体化することができたなら、現世において成仏(即身成仏)ができると空海は考えた。大日如来は神を意味するところからすれば、真言とは宇宙に偏在する普遍の法と言えるだろう。普遍の法であるなら、それは我が身のうちにも、すべての衆生にもそなわっている。そうであればこそ、すべての人間は救われると空海は説いた。一人の人間として悟りを開く「成仏」とすべての民の「救済」を関連付けた仏教思想化は、日本においては後にも先にも空海のみである。この空海が説いた即身成仏思想が、形を変えてはいるが色濃く足跡を残した地・・・。それもまた、即身仏という姿をとり、山形の地にあった。



2.即身仏の登場

即身仏は東北地方に多く存在し、「衆生済度」を真剣に願った僧が自らの死をものともせず、土中に生きたまま籠もり、ミイラと化したものだ。その功績ゆえに、彼らの名はすべて「空海」の「海」の字を与えられている。即身仏について、多くの宗教家や歴史家は、空海の説く「即身成仏」を誤解してしまった結果だと述べる。宗教史という観点で見たらそのように判断できるが、霊性史の観点から見ると、即身仏には日本の歴史さえ動かしてしまった深い意義が感じ取れる。

それでは次に、一、六〇〇年以降の日本の即身仏の記録を見てみよう。

  人名    享年   入定年     寺名     所在地 

弘智法印  八十二  貞治二年(一三六三) 西生寺   新潟県 

弾誓上人  六十三  慶長十八年(一六一三) 阿弥陀寺 京都府 

*本明海上人 六十一  天和三年(一六八三) 本明寺   山形県  

宥貞法印 九十二   天和三年(一六八三) 貫秀寺   福島県

舜義上人 七十八   貞享三年(一六八六) 妙法寺   茨城県

心宗行順法師 四十五 貞享四年(一六八七) 瑞光院  長野県

全海上人 八十五   貞享四年(一六八七) 観音寺(菱潟全海堂) 新潟県 

*忠海上人 五十八   宝暦五年(一七五五) 海向寺   山形県 

秀快上人 六十二   安永九年(一七八〇) 真珠院   新潟県 

なんと「空海」の「海」の字を与えられた即身仏が山形に八体もあるのだ。山形盆地の南の米沢に明海上人、西の白鷹に光明海、北の朝日村・酒田市にその他の上人たち、そして東の山寺には最澄の精神を受け継ぐ不滅の法灯が燃え続けている。

3.空海と最澄の分裂の償い

「宗教の陰湿な歴史」「信仰の狂信的な焔」「異常で野蛮」・・・・。そんな表現をする歴史家も多い。しかし、即身仏ができた時代の日本全体の心霊の次元は、今とはまったく違うのだ。何よりも、人間が魔界に翻弄されていたがゆえの、あまりにも悲しい天界側の切り札であった。

紀元八〇〇年代、桓武天皇の時代に最澄は国に公認された僧であった。その最澄が、無名の立場から唐にわたり高野山を開いた空海に密教を学ぶために弟子入りする。天界の願いは最澄と空海が力をあわせ、理趣経を手がかりに即身成仏の真の意味を解き、さらに万民にわかりやすく体系化することであった。文字を学ぶだけでは理趣経の奥義は悟れぬ、 と考える空海では、万民がわかりやすく体系化するということはありえないことであった。そこには最澄の能力が必要であったのだ。しかし、二人はその理趣経のことがもとで決別してしまう。その失敗により、最澄の天台宗と空海の真言宗の行方は、魔も気にかけることもないほどに凋落した山岳宗教の地へと託される。出羽三山である。

二人の決別から時を巡ること八百年、徳川が豊臣に勝利し天下を取ることによって、地上の誰一人として気付くことなく、聖徳太子当時の三者の分裂による失敗が元返された。つまり、聖徳太子と山背大兄太子の立場に立つ徳川家康と秀忠が政権を掴んだのだ。すると時を経ることなく、空海と最澄の失敗を元返そうとする出来事の端緒が開かれる。

一六三〇年に羽黒別当となった天宥が、月山・湯殿山・羽黒山の三山を統一して、それまでの真言宗を改め天台宗に改宗し、上野寛永寺末にしようとしたことに始まる。凋落の一途を辿る羽黒修験の勢力を挽回しようと、家康・秀忠・家光の三代の将軍の帰依を受け、政務に参与するまでになった天海僧正を頼り、天海が秀忠の命で開山した東叡山寛永寺の末寺に、羽黒修験を据えたのだ。天台である寛永寺の末寺になるためには、改宗が必要であった。最澄・空海のときは、空海に最澄がへりくだる形で弟子入りした。その逆に、空海を象徴する羽黒別当の天宥が、最澄を象徴する天海僧正の寛永寺の末寺になるのだ。

しかし、湯殿山を中心とする四ヵ寺が天宥の意に逆らって、真言宗を改めて天台宗になることを拒否し、四ヵ寺は羽黒山と別の存在であると主張した。以後、天台となった羽黒山と真言を主張する湯殿山の間で、百六十年間も紛争が続く。湯殿山の四ヵ寺は羽黒側と対立を深めるほどに、弘法大師(空海)開祖で大日如来の修行成就・即身成仏の霊地であるという主張を強めていく。このような弘法大師信仰の高揚の中から、大師の「即身成仏義」と即身仏が結びつき、志願するものが現われるようになった。命の供え物を神が要求するわけではないのだ。魔界に対して、自己の欲望よりも神と人類のためにすべてを捧げるという決意を証明してこそ、魔の支配から離れることができ、天界の活動舞台が広がるのだ。それは、この時代の心霊状況から言えることであり、心霊が高まった現代では命よりも心情を証しすることのほうが尊い。

そしてもうひとつ語っておくことは、魔は人々の邪念の総和をもって一人の人物をたて、混乱と分裂の淵に落としいれようとする。たとえばヒットラーのように・・・。神は一人の人の超越的な愛の心情の勝利を持って、全体の勝利とみなし恵みを与えようとする。一六八三年本明海上人の即身仏に始まり、一八六八年明治維新の年に鉄竜海上人が即身仏となるまで約百八十年の間に、山形だけでも八体の尊い命が供えられた。上記のような内容を踏まえて考えれば、即身仏となった僧たちの、空海も信じた弥勒仏への信仰と民衆の幸福のために捧げた犠牲の心情は、魔界を退け、天使たちの活動舞台を作ったことになる。つまり、空海と最澄、そして泰範に代わる使命者を、過去の歴史の失敗を元返すために再び立てることができる霊的な土台ができたのだ。空海・最澄・泰範を指導した天使たちと同じ系列の天使が、西郷隆盛・勝海舟・坂本龍馬を指導し、明治維新へと突入していくことになる。

江戸時代には全国のほとんどの仏寺、神社は形骸化していた。出羽三山でも同じである。羽黒別当天宥は宗教家というよりも実務家であった。信仰を極めるというよりは、出羽三山の存続のために簡単に改宗してしまう。保身のための画策に明け暮れる。聖徳太子、山背大兄王子、空海、最澄の魂を背負う天使の降り立つ足場がどこにも見出せなくなっていた。そんなとき、即身仏を志した人たち・・・・、人夫や農夫など、貧しく、無知な大衆の中から、世を捨てなければならない悲しい動機で出家した人たちのけなげな心に光明を見出したのだ。

 

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人名    享年   入定年     寺名     所在地

*真如海上人 九十六  天明三年(一七八三) 大日坊   山形県 

妙心法師 三十六   文化十四年(一八一七) 横蔵寺  岐阜県

*円明海上人 五十五  文政五年(一八二三) 海向寺   山形県 

*鉄門海上人 六十二  文政十二年(一八二九) 注連寺  山形県 

萬蔵 ?       弘化四年(1847) 萬蔵稲荷神社  宮城県

*光明海 ?      嘉永七年(一八五四) 蔵高院  山形県  

*明海上人 四十四   文久三年(一八六三) 亀栄山明寿院 山形県 

*鉄竜海上人 六十二  明治元年(一八六八) 南岳寺   山形県  

仏海上人 七十六   明治三十六年(一九〇三) 観世音寺 新潟県

 

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