7.第三次抗争期(逆転に次ぐ逆転)−神のみぞ知る逆転劇 −        目次へ   前へ  次へ
 

10.山背王殺害事件と信康殺害事件
 「第一次抗争期」において、藤原鎌足は軽皇子を操り、蘇我入鹿を首謀者として太子の息子・山背大兄王を自害に追いこみ、さらに、蘇我入鹿を中大兄皇子に打たせ、自らは影で権力を動かした。この二つの殺害事件を、織田信長にまつわる二つの事件と比較して考える。

 梅原猛氏の著作「隠された十字架―法隆寺論―」に表された通り、皇位継承をめぐり蘇我入鹿と軽皇子を結び、山背大兄王殺害の陰謀を計画したのは、軽皇子の政治顧問役を務めていた藤原鎌足であった。当時、大臣は入鹿の父・蝦夷だったが、国政は入鹿が行っていた。専横政治を強いていた蘇我父子にとり、優秀な山背大兄王が皇位についたのではやりにくくなる。気の弱い軽皇子が山背大兄王を自害に追い込めたのは、鎌足のとりなしで、権力を握る蘇我父子の後ろ盾を得たからだ。この事件は天界と魔界の「第一次抗争期」において、地上に天界が働く足場を無くすための、魔界側の第一のシナリオだった。「第三次抗争期」において、この山背大兄王殺害事件に相当する魔界側の第一のシナリオとは、はたしてどんな事件だろうか。一五六七年五月徳川家康の嫡男・信康と織田信長の娘・徳姫が結婚する。一五六二年一月に結んだ同盟を、さらに強力にするために婚姻関係を結んだのだ。ところが、家康の嫡男・信康は戦いと駆引きの才能が秀でていて、信長は自分の息子と比べ、信康の存在に不安を感じた。そこで信長は一五七九年九月、信康と家康の妻・築山殿を、徳姫の告げ口をきっかけとして殺害を命じた。

11.魔界の第一のシナリオ
 コトの発端は、信康の妻で信長の娘である「徳姫」の告げ口からだった。家康の妻で信康の母・築山殿は、実家が今川なので、今川を滅ぼした織田家に恨みがあった。織田の娘・徳姫とは犬猿の仲となったのだ。徳姫と信康の間も険悪になり、信康の素行は乱れていく。我慢ならなくなった徳姫は、実家の父・信長に「築山殿が武田勝頼に密通し、家康の命を狙っている。それに信康の乱交がひどい。」と告げ口をした。信長は常日頃から、「自分の死後、信忠は信康に征服されるかもしれない」と思っていた。

 そこで徳姫の訴えを口実として、家康に築山殿と信康の切腹を命じたのだ。信長と戦っても勝ち目はなく、家康は泣く泣く、後継者として期待していた信康をあきらめた。妻のことも嫌いではなかったのだ。信康の死後、三日間城に閉じこもって、家康は泣き続けた。「第一次抗争期」では、蘇我蝦夷・入鹿父子が自分たちの政権を危うくするであろう山背大兄王を、軽皇子をして自害に追い詰めた。

 「第三次抗争期」では、織田信長が嫡男・信忠の権力を奪われるのではないかと心配し、家康に命じて嫡男・信康を自害させた。これは魔界にとっては、魔界の中心的役割を担う秀吉の立場を固める第一のシナリオであった。聖徳太子を象徴する立場に立つ家康を、魔界は直接打つことはできない。聖徳太子は病没したのであって、誰かに殺されたわけではないからだ。だが、この一件を通して、家康が信長に対して、恨み心頭に達する状態になったとしたなら、魔界は殺害できる条件を握ることになる。恨みの情念は天界との関係を断ち切り、魔界との接点となるからだ。 だから、魔界の次のシナリオは、本能寺の変において織田信長とともに家康も殺害してしまうことであった。そうすれば、藤原鎌足の時と同様に、豊臣秀吉の邪魔となる者は除かれる事になるのだ。

12.魔界の第二のシナリオ
 本能寺の変において明智光秀は、織田信長と同盟を結んでいる徳川家康をも狙っていた。天界の働きがなければ、魔界の計画通りに、家康も安土で死ぬことになっただろう。ところが、魔界の第二のシナリオに狂いが生じる。聖徳太子を、執政の絶頂期に病死させるほどの力を持つ魔界が、なぜ家康を討てなかったのか。ここで、織田、豊臣、徳川の背後にある霊界との関係を説明しないといけないようだ。
 聖徳太子は生きている間に、天界から受けた使命を果たせなかった。太子が「和の国」を建国するために、最初に果たさなければならなかったことは、推古天皇と蘇我馬子の心に、国の民への愛や思いやりをめばえさせ、自らの権力欲を超える次元に至らしめなければならなかった。これが果たせずに、山背大兄王や蘇我入鹿、藤原鎌足の世代になって、完璧に分裂し恨みの関係になってしまう。聖徳太子は霊界に入り霊となったが、自らがまねいてしまった三者の恨みの関係を、地上界で和の関係に結ばなければ、太子は永遠に成仏できない。そこで、日本の動向の中枢にあって、自らの使命を託せる人物を探し、恨みあう人物との間に「和」をもたらせるよう守護し助けなければならない。
 これに対して魔界は、地上に未来永劫の恨みの世界を築くために、中心的な人物を恨みの境地に落とそうとしてくる。

13.魔界のシナリオと霊界
 太子・蘇我・藤原の恨みを解くための徳川・織田・豊臣の、時代を超えた天界と魔界の抗争は、互いに智略を尽くした闘争となる。本能寺の変で明智光秀が徳川家康を取り逃がした時点で、まだ魔界は天界の攻勢に気付いていなかった。天界は魔界の策謀を利用しながら、天界側が有利に立てる状況を作り出そうとしていたのだ。それは自我の欲望を果たすためには、阻む者を抹殺するということだ。徳川家康はこの魔界の戦法に乗りながら、天界が逆転していく土台を造っていくことになる。
 さて、まわりくどくなったが、魔界側の第一のシナリオに次ぐ、第二のシナリオを考える。「第一次抗争期」の蘇我入鹿殺害事件に対応する「第三次」における事件は、もちろん、本能寺の変である。藤原鎌足は時の権力者・蘇我入鹿を中大兄皇子とともに殺し、新しい政権の基礎を作り上げた。豊臣秀吉は、彼自身が信長を殺したわけではないが、明智光秀の謀反に乗じて、まんまと政権を織田家から奪ってしまった。ここで、徳川家康をも抹殺すれば、豊臣秀吉が魔界の目的を実現する道を阻む勢力は、ほとんどなくなっていたのだ。家康が妻と息子を自害に追いやった信長に対する恨みが、他者を思いやる心を超えた時に、家康は天界の守護からはなれ、抹殺されることになったはずだった。
 ところが家康は、妻と息子を失った悲しみに、三日三晩を泣き明かした。それは織田信長に対する恨みを超える、純粋な息子と妻に対する愛ゆえに取らざるを得なかった行動だろう。家康は十四年に及ぶ人質生活の中で、人知れず他者を配慮する心を培った。その間、上人より仏教の教えを学んだといわれる。人生の辛酸をなめる過程で、それらの教えは心に染み込んで行った。それゆえに、天界が働ける要素も備えていた。本能寺の変をきっかけにして、秀吉が藤原鎌足の立場に立ったことから、抹殺をまぬがれた家康は、ここに聖徳太子の立場に立つことが確定したと言っていい。もちろん、彼らにはそんな自覚はない。ただ、その背後にある太子の霊と鎌足の霊は必死の攻防を謀っていた。

次に秀吉のその後の足跡を見ていこう。

14.秀吉の野望
 天下一統に成功した秀吉は、さらに大陸への野心を抱き、一五九二年、朝鮮半島の侵略を開始した。文禄の役である。
 秀吉は西国大名を主とした陸軍十六万、九鬼・藤堂らの水軍約九千の大軍を朝鮮に送った。当時朝鮮は政治、軍備ともに乱れていたので、戦国時代以来歴戦の日本軍と鉄砲の威力に破られ、小西軍は釜山上陸後二〇日で首都京城を占領して平壌に進み、加藤軍も東海岸を北進して国境の会寧に達した。しかし、李舜臣の朝鮮水軍に圧倒されて補給路をたたれ、李如松指揮下の明の救援軍にも圧迫されて、平壌・京城で敗れて後退した。両軍に和議がおこって、一五九三年停戦となり、日本の大軍は一応撤退した。家康は朝鮮への出兵には反対であったが、表には出さず、むしろ賛成するように見せかけた。秀吉に見抜かれたならば、直ちに誅殺される危険があるからである。
 文禄の役の後、和平交渉が行われている間、秀吉は強硬な条件を出しているが、朝貢を許すという屈辱的な回答に激怒し、翌年、最出兵を命じた。加藤・小西を将とする十四万の大軍が進発した。日本軍の虐殺は過激さを増し、民衆は虫けらのごとく殺されていく。日本軍が、韓兵五五〇二人の鼻の塩漬けを送り届けた記録が残っている。首ではかさばるので鼻にした結果、女子供でも見分けがつかないので殺されることとなった。ところが、兵の戦意は上がらなくなり、和戦両様の態度で臨むようになった。やがて明の援軍と朝鮮民衆のゲリラ戦に苦しめられるようになっていく。
 そのうちに、一五九八年八月秀吉が病死し、遺命によって全軍が撤退した。

15.見えない力・天界の攻勢
 一五九一年から二回七年にわたった朝鮮出兵は、完全な失敗のうちに終わった。この侵略戦争は朝鮮・中国の人々に日本人に対する怨恨を強くのこした。秀吉政権にとっては東アジア制覇の野望むなしく、かえって権威の失墜、軍事力の消耗、さらに政権内部の矛盾や対立が激化することとなった。
 これら一連の歴史的事実は、魔界と天界の激しい霊的抗争の現われである。豊臣秀吉が、「第一次抗争期」における藤原鎌足と不比等の歩みと同じ過程を踏み、魔界の策略の布石を打つとするなら、どのような歩みとなったであろうか。藤原においては不比等の時代になって、藤原氏による摂関政治の基礎を作り、魔界の母性のエキスを注ぎ込むようになる。「第三次」においての魔の目的は、韓国にまでも魔界の母性の血統を注入し、東洋の精神世界の土台を崩し、世界を未来永劫にわたる恨みの関係におとしめることだ。もし秀吉が朝鮮を支配したとしたならば、朝鮮にキリスト教が入り根付くことはなくなっていた。ここに魔の最大の目的があった。秀吉は一五九八年に六十三歳で病死したが、たとえば、あと十年ほど生きられたらどうなっただろうか。政権は息子・秀頼に受け継がれ、彼は不比等と同じように魔界の目的を果たすための布石をしっかりと打ち込んだだろう。つまり秀頼は、秀吉の野望を受け継ぎ、韓国及び東アジアを制覇し、天界の救済の業がおよばない世界を造り上げただろう。それを可能にするだけの魔界の霊的勢力は、秀吉が天下一統を果たした時点では充分すぎるほどだった。徳川幕府による二百数十年におよぶ鎖国の期間は、豊臣幕府による東アジア圧政期間となっていたはずなのだ。 だが、魔界の攻勢を減退させ、天界の攻勢を強める出来事が起こったのだ。


16.天界が攻勢に出るきっかけ
 推古二〇年(六一二)代の政治はほとんど太子一人の手のよって動かされていたと言っていい。太子は推古天皇の没後には自ら皇位を継ぎ、やがては息子の山背大兄王に皇位を継承させることになることを確信していた。太子は政務の絶頂期の、推古三〇年(六二二)に病没してしまった。推古天皇や蘇我馬子の心の内に潜む魔の要素を、屈服させることができなかったがゆえに、朝廷や政権内部から魔界の攻勢を退かせることができなかったのだ。
 豊臣秀吉が権力の絶頂期に、病没してしまった背景には、聖徳太子が病没したのとは、まったく逆の原因がある。つまり、天界の攻勢を秀吉政権の中枢に向かわせ、魔界を退かせるだけの天運と言うべきエネルギーを触発させた事件である。
 豊臣秀吉は一五八七年に、すでにバテレン追放令を発布していたが、一五九六年に起きたサン=フェリペ号事件をきっかけに態度を硬化させ、激しい迫害がはじまった。信者二十六名(外国人六名、子供三人)が大阪や京都で捕らえられた。一五九七年一月四日に京都をたち、徒歩で長崎に護送され、二月五日に十字架で処刑された。京都から八百八十キロの道のりを、三十三日にわたり、耳たぶを切り落とされ、嘲笑を受け、罵倒されながら長崎まで歩いた。イエス・キリストの三十三年の生涯と、その全路程を象徴するゴルゴダの丘への道行きを、一日一年として日本の地に刻む込むように・・・。そして、信者二十六人は日本のゴルゴダの丘でイエスと神への信仰を貫き、命は奪われたが、魂は襲い掛かる魔に勝利した。その勝利で天界の活動舞台は広がり、巻き返しがはじまる。

 はたして秀吉を霊界へ引き込んでいった力がどこから来ているものなのか、残念だが物理的には、はっきりさせることはできない。だが、二十六名のキリシタンが十字架で処刑された翌年であることに間違いはない。

 翌年一五九八年八月八日、豊臣秀吉は権力と繁栄の頂点で病に倒れ没した。関が原の戦いに徳川家康が勝利して将軍となると、禁制は一時緩んだが再び強化される。それ以来、徳川家康、秀忠、家光と時代を経るごとに弾圧は激しさを増していく。主なものをあげれば、一六一四年、有馬と口乃津において四十二名。一六一九年、京都において五十二名。一六二二年長崎において五十五名、他所においてもこの年だけで六十五名。一六二三年、近江において五十名の火あぶりをはじめとして、天領だけでも五百名ほどが殉教した。一六二四年、東北地方では秋田の六十四名をはじめとして、横手でわかっているだけで三十五名、出羽地方(山形県)だけでも百九名が殉教した。

 徳川家の将軍や家臣たちは、徳川家の権力をかためるために行動した。ところが、時代を追うごとに現れてくる結果が、彼らの意図を逆転させていくようになる。キリスト教徒たちの殉教が歴史を変えていくようになるのだ。それに気付いた魔界は、やがて殉教をも封じ込める鎖国へと進んでいく。

17.江戸幕府創設
 「第一次抗争期」において、聖徳太子は紀元六〇〇年を日本の歴史の基点と定め、六〇一年から具体的な政治改革に着手し、斑鳩宮を造営した。六〇三年には「官位十二階」を、さらに六〇四年には「十七条憲法」を制定し、天皇の権威は高められ、大和朝廷の中央集権化に効果をもたらした。
 その千年後の一六〇〇年をめざして、天界は攻勢をかけていたのだ。一六〇〇年の関が原の戦いは、まさに日本の歴史と未来をかけた天界と魔界の戦いであったのだ。この戦いに勝利した天界側は、ようやく失った千年を取り戻せる礎を築いたことになる。
 一六〇三年、家康は天皇から征夷大将軍・右大臣に任じられて、政権担当者としての名実をととのえ、江戸幕府を創設した。その二年後、将軍職を秀忠に譲ったが、これは将軍職を徳川氏が世襲することを明示したものだ。家康自身は引退した形であるが、大御所として政治の実権を握った。
 一六一五年、大阪夏の陣に勝利し豊臣氏を滅ぼすと、この年の内に一国一城令・武家諸法度を発布し、大名を支配下に置いた。また、禁中並公家諸法度・諸宗諸本山法度を制定した。家康は幕府と大名の関係を、「御恩と奉公」のような曖昧なものにせず、官僚的なシステムをつくり厳しく規定した。

18.厳しい官僚的システム
 「武家方諸法度」の遵守させた上に、諸大名から妻子を人質に出させて、これを江戸に拘束した。そして参勤交代というルールを作り、諸大名は1年ごとに江戸に出頭して公務に服することとされた。さらに、公儀隠密を諸大名の領内に送り込み、その動静を詳しく探った。諸大名に不穏な振る舞いが見られたなら、直ちに「お家取り潰し」を行った。公家諸法度では、京都の天皇や貴族を厳しく統制し、朝廷がこれに違反するや、直ちに介入して罰を与えた。諸宗諸本山法度ではさらに、宗教にも統制を加えた。「檀家制」を創出し、全国の寺社を幕府の統制管理下に置き、国民全てをその地域の寺社の所轄内に位置づけたのだ。その上で寺社は、政治活動を禁じられ、職務を葬式などの法事のみに限定したのだ。このようにして、大名も朝廷も寺社も、全てが徳川幕府の厳しい管理下に置かれた。このような強権的な統制を可能にしたのは、家康が持つ強力な軍事力にあった。

19.光圀・日本史研究出発
 徳川家康・秀忠・家光の三代は、幕府権力の集中と安定をはかるため、大名弾圧を軸とした武断政治の傾向を強くしていた。ところが、幕府が大名に対して強硬な統制策(改易、減封、転封)をつづける限り、牢人(浪人)が増加する。牢人が増加すれば幕府に対して反乱を起こすものが出てくる。
 そこで、四代目の家綱からは法律や制度を整備し、社会秩序を保ちつつ幕府の権威を高める文治政治への転換を果たした。文治政治は儒教的徳治主義とも言われ、「学問・法、秩序や儀礼を重んじる政治」と考えることができる。
 こうした学問として重視されたのが、儒学、なかでも朱子学であった。朱子学は、「目下は目上を敬うべき」といった道徳論なので、幕府が既成秩序を維持する上で有用な道具となりえたからだ。この朱子学追求において、独自な展開をしていったのが、徳川光圀(水戸黄門)の水戸藩である。光圀は、徳川家が代々将軍家を続けるための血統の正当性を示そうと、大日本史の編纂事業に着手した。
 そのために一六五七年、江戸駒込に史館を設け、一六七二年にはこれを移転させ彰考館と命名した。「歴史を彰かにして未来を拓く」という意味である。そこに多くの学者を集めて研究を行わせたのだ。光圀は大日本史編纂において、史実の正確性を期するため、学者らを日本全国各地に派遣し、古文書・記録の採取に従事させた。

20.尊王思想への布石・失われた歴史
 徳川光圀によって一六五七年にはじめられた大日本史編纂は、光圀の死後、一七二〇年に主要部分が完成し、幕府に謙譲された。その後も、校閲と編纂が行われ、全三九七巻目録五巻のすべたが完成したのは二百五十年後の、一九〇六年(明治三九)になる。
 大日本史の主要部分が完成した一七二〇年の千年前、「第一次抗争期」における七二〇年に、日本書紀は完成している。日本書紀は天武天皇が、朝廷(天武天皇とその系統)支配の正当性を、歴史によって説明しようとする意図で編纂がはじまった。しかし、その完成は天武天皇の死から数十年経過した後の、藤原不比等の権力体制下であった。不比等は、乙巳の変(蘇我入鹿暗殺事件)での、中臣鎌足の活躍を大々的に取り上げ正当化したり、藤原氏にとって有利な方向へと編集させ、日本書紀を歴史改竄の為の手段として用いた。
 乙巳の変で蘇我入鹿が殺害された翌日、父・蝦夷も自邸を焼き払い自害した。このときに聖徳太子・蘇我馬子が編纂した「天皇記」「国記」が焼失した。日本の「本当の歴史」を闇に葬むったのは、鎌足でもなければ、不比等でもない。そこには、人間を操る魔界の謀略があるのだ。
 しかし、日本書紀編纂から千年後、光圀によって集められた学者達が、歴史の真実の足跡を求めて、全国を行脚することになるのだ。

21.浮かび上がる尊王思想

 光圀が編纂をはじめた目的は、徳川家が将軍家を継承していくための正当性を示そうというものであった。しかし同時に、水戸に招いた朱子学者・朱舜水の影響を受け、天皇による普遍的な統治が続いた日本の神国性も強く意識していた。
 徳川家は三河の松平郷出身の豪族にすぎないが、先祖を源氏の名門である新田氏と結びつけ、源氏を名乗っていた。室町幕府の征夷大将軍であった足利氏と同格の血筋を示し、さらに天皇の子孫としての源氏の血筋を誇るためには、天皇家の神聖さを訴える必要がでてくる。
 このようなことが、絶えざる王朝としての朝廷の価値、評価を高めることになり、尊王思想へと発展していくことになる。
 一七二〇年に幕府に謙譲した時点では、よもや、幕末の尊皇攘夷思想を引き出していくとは考えることもできなかっただろう。
 

 
目次へ   前へ  次へ
inserted by FC2 system