6.第三次抗争期(逆転に次ぐ逆転)−魔界の帝王の座へ −        目次へ     前へ  次へ

第三次抗争期「さらなる抗争」

「第三次抗争期」において魔界は、宗教や思想を絡めて人間社会をかき乱そうとしていくだろう。はたして、天界の巻き返しはあったのかどうか。第一次・第二次における歴史の進展のパターンを、念頭に置きながら読み進めていただくと、理解が早いと思う。

1.より深い分裂への闘い
 父と子が、そして兄弟が、権力をめぐり殺しあう戦乱の世に、魔界が、より深い憎しみの世界を築くために立てた武将たちがいた。その中に、はたして天界は、願いにかなう使命者を探し出すことができるのか。仏教伝来から千年、末法到来から五百年になる一五四九年、キリスト教が伝来し、第三次抗争期が幕を開ける。「第二次抗争期」では、魔界の攻勢が一方的に展開したが、キリスト教が入ることによって、天界側の巻き返しが始まるのだろうか。

 魔界の分裂工作は第二次抗争期がそうであったように、第一次で築かれたパターンをもって動いていく。第一次抗争期の開始当時の使命者たち、つまり山背大兄王子、蘇我入鹿、中臣鎌足の分裂への歩みを、同じようなパターンでたどりながら、より深い分裂へと誘おうとするのだ。

 魔界が立てた代理人物とは、蘇我氏を象徴するのが織田信長、聖徳太子父子を象徴するのが徳川家康、藤原氏を象徴するのが羽柴秀吉ということになる。この三者こそ魔界側が、思想と宗教に裏打ちされた武力闘争をもたらすために目をつけた人物たちであった。これらの人物たちの権力をめぐる裏切りにつぐ裏切りの行為の過程で、あるいは宗教弾圧の過程で、抜き差しならない恨みの関係を作り上げようというのだ。

2.天界の戦略
 千年前、聖徳太子が理想とした律令国家の崩壊を決定づけた事件は、入鹿による山背王子の殺害である。その入鹿を中臣鎌足の暗躍によって動かされた中大兄皇子が打った。ついに、蘇我馬子以来権力をほしいままにしていた蘇我一族が権力を手放さざるを得なくなる。

 蘇我氏に変わり、中臣鎌足が藤原姓を朝廷より賜り、天皇の影に身を置きながらも政権を握るようになる。

 魔界は第一次で、天界に勝利したと同じパターンで、代理人物達を動かそうとしてくる。天界がこの敗北をもとがえすためには、この人物達に、第一次とはまったく逆の動きをさせなければならない。まったく同じパターンであれば、魔界の勝利であり、パターンとは逆に現れれば天界の勝利と言える。

 その天界の勝利のシナリオとはどうなるだろうか。当然、権力を握った中臣鎌足を山背大兄王子が倒し、権力を取り戻すということだ。そこで中臣鎌足と同じようなパターンで権力を手にいれた人物が、中臣鎌足の立場に立つ使命者として現れなければならない。

 それではこれから、魔界が操ろうとした武将達がどんな行動をとり、どんな結果として現れたのかを見ていこう。

3.天下取り合戦のスタート
 群雄割拠の戦国時代を自らの手で納めること、つまり天下一統は力ある武将たちのすべての願いであった。それを実際実現まで肉薄したのが織田信長であり、それを継承し天下一統をなしたのが、信長の家臣として功をなしてきた豊臣秀吉であった。この時代は骨肉相食む残酷な時代でもある。甲斐の武田信玄が実父の信虎を追放し、奥州探題伊達植宗は実の子の晴宗と戦っていた。また越後では、上杉謙信と兄の晴景が争っている。

 織田信長と豊臣秀吉の出身地である尾張国(今の愛知県)でも、この情勢は同じであった。尾張守護であった斯波氏が衰退無力化し、そのもとに守護代としてひとつに固まっていた織田家が分裂する。その氏族同士のしのぎあいの中で、信長の父・織田信秀は商業による経済力を基盤として、尾張下四群で頭角を現し優位に立つようになる。

4.小人・秀吉と人質・家康
 一五五一年三月、信秀が死に、信長は一八歳で家督を継いだ。信長は一五五九年に尾張上四群の支配者・織田伊勢守信安を岩倉城に破り、尾張を統合する。秀吉は信長の父、信秀に足軽として仕え、負傷して帰農した木下弥右衛門を父として生まれる。彼は七歳で父を失い、信長が家督を継いだ年に家を出る。一時、今川義元の家臣に仕えるが、一五五四年より、織田信長の小人として仕え始めた。

 家康はと言えば、三河国の松平家の後継として生まれながら、この頃まだ今川義元に人質として囚われの身であった。織田信秀が力を増してきた尾張と、今川義元の治める駿河の列強にはさまれた三河は、国の内部でも一族が十四家に分かれ主導権争いが絶えず、まさに風前の灯であった。一五四八年、今川と織田が三河を舞台に激突しようとした時、家康の父・広忠は今川の庇護を受け、織田と戦う策をとった。織田は敗れたが父も家臣により殺され、三河は今川に支配されるようになる。今川は松平家嫡男家康を人質とし、三河を首領不在の地とした。家康八歳のときである。今川義元は三河から富を絞り上げ、税金は重く、尾張と戦うときには先人をつとめさせられた。

 一五六〇年、今川義元は室町幕府の総帥をめざして上洛、二万五千の兵を集め尾張へ向かう。家康ひきいる三河勢はやはり先鋒をつとめさせられる。義元も兵も駿河の民も上洛が失敗しようなどとは露ほども思っていなかった。二万五千の兵の前に織田軍はわずか四千。織田との戦いでは、いかに損害を少なくしようかということだけを考えていた。

西暦1500年⇒     魔界の帝王の座から、我知らず神側の位置に立つようになる徳川家康

5.織田信長の奇襲作戦
 しかし、今川軍は織田信長が秘密裏に立てていた桶狭間奇襲作戦にはまり込んでいく。先鋒の家康軍が丸根砦を占領、また朝比奈泰能隊も鷲津砦を陥落させた。幸先良い報告を受けた義元は、部隊を停め昼食にかかる。桶狭間の山間のくぼ地で二万五千の兵は、小道のかたわらに細長い縦隊隊形のまま停止して昼食をとった。そこに思いもよらない織田軍の襲撃を受け、義元は首を討たれてしまった。奇跡的な織田軍の勝利であった。先鋒をつとめた家康軍は敵地の中に孤立してしまった。その時、家康の生母の伯父で信長についている水野信元が、三河岡崎に逃げ帰る手引きをしてくれた。
 家康は晴れて今川勢の去った岡崎城にはいった。足かけ十四年ぶりで、人質の身から解放された。その上に水野信元は信長に家康との和融を進言した。信長は即座に言を採用し、ここに織田と松平(徳川)の盟約が結ばれる。こうして桶狭間をきっかけとして、織田信長、木下藤吉郎(豊臣秀吉)、松平元康(徳川家康)は顔をそろえるようになる。この桶狭間の奇跡的勝利は、三者においての誰も予想のつかない天下人リレーのスタートとなった。

6.信長の挑戦
 全国に散らばる列強の顔ぶれを上げれば、天下取りの壁は恐ろしいほど分厚い。尾張国の近隣だけに限っても、東に今川氏、西に北畠氏、北に斉藤氏といった強豪がひしめき、さらにその奥には、甲斐の武田信玄、越後の上杉謙信らが控えている。織田信長は五千の兵力をもって、これら何万にもなる精強軍団に挑戦していくのである。まず信長は桶狭間の勝利の直後から七年をかけて、北隣の強国、美濃の斉藤氏を落とす。
 一五六六年、家臣・木下藤吉郎は、美濃の稲葉山城攻略の拠点となる州股への砦造りを成功させ名を上げる。翌年、秀吉の目覚しい働きで、稲葉城は落城し、美濃国は信長の手に落ちた。美濃が落ちる前々年の一五六五年、十三代将軍・足利義輝が松永久秀と三好党によって暗殺された。義輝の弟・義昭は傀儡を立てようとする久秀から、将軍の地位を取り戻そうと、諸国群雄、士家へ檄や懇請の文書を送る。しかし、ほとんどがなしのつぶてであった。そのような義昭と織田信長を繋いだのは明智光秀であった。一五六八年七月一日、両者は初めてあいま見えた。
 信長は二ヶ月もたたぬうちに、義昭を擁して京に進撃し、たちまちのうちに入洛した。義昭は十五代将軍となったが、共に天下の主を主張する二人はぶつかり合う。義昭は将軍の地位を利用し、信長打倒の檄をまくと、これにより反信長包囲網ができあがり、息が止まるばかりの四面楚歌の状態におかれる。義昭を黒幕に、浅井長政、朝倉義景、三好党、武田信玄そして本願寺一向衆、比叡山の宗徒からなる反信長の勢力と苦しい戦いを重ねる。

7.反信長包囲連合との戦い
 一五七〇年九月一二日、信長は浅井、朝倉に味方する比叡山を焼き討ちする。社寺堂塔五百余棟が灰となり、逃げ出してくる男女僧俗三千余人が首を斬られた。翌日には朝倉を屠り、二七日には最後の血戦を挑む浅井長政も自刃した。浅井、朝倉が破れると、顕如ひきいる本願寺が、公然と信長との交戦を伝える檄を諸国の門徒にとばした。強大な組織力をあげて挑んでくる一揆衆は難敵であった。信長は十年間、各地で蜂起する一揆をことごとく制圧し、天皇を介して講和という形で顕如を降伏させた。

 武田信玄は三方ヶ原合戦で織田・徳川同盟軍に大勝していながら、翌一五七三年に突然病死した。その決着は信玄の後継である武田勝頼との間で着けられるようになる。一五七五年五月に信長と勝頼は長篠戦をむかえる。無敵を誇る武田騎馬隊に、信長は三千挺の鉄砲隊で挑む。千挺ずつの鉄砲を三交替で連射したのだ。砲弾の雨あられに、勇猛をもって鳴る武田軍団は撃破された。そして一五八二年三月に勝頼は死に、武田の残党はことごとく斬られ、関係寺社も焼き尽くされた。反信長包囲連合との戦いは、幾度かの信長の危機を同盟者として救ってきた家康や、命を賭して戦い、功をなしてきた秀吉の働きなどもあって突破できた。そのようにして宿敵武田氏を滅ぼした織田信長の天下統一事業が、本格的に軌道に乗り始めたとき、それは起きた。

7.秀吉による天下一統

 本能寺の変である。信長に義昭を引き会わせ、天下取りのチャンスを信長にもたらした明智光秀の謀反である。信長とその嫡男信忠は光秀ひきいる一万余の反乱軍の前に自刃して果てた。その時、家康は信長公の賓客として安土にいた。当然、光秀は家康の首も狙う。家康は少数の従者を伴って脱出し三河に帰った。秀吉は備中高松城を包囲して毛利の援軍と睨み合っていた。秀吉は凶報を知るとすばやく対応策を打ち立て、和睦を提案すると、毛利方は信長の来援を恐れてそれを受け入れた。秀吉は百キロ余の道を姫路城へと引き上げ、二日間、兵を休ませた後、光秀討伐のために出陣した。四万の大軍の前に光秀は敗れ去った。

 亡君の仇を討つという輝かしい実績を討ちたてた秀吉は、信長の後継を決定する重臣会議を牛耳るようになる。候補者は次男の信雄と三男の信孝にしぼられた。しかし、秀吉は直系相続を主張し、信忠の遺児である秀信を立てて推し切った。会議の後、秀吉は三歳の秀信を膝に抱いて諸士の拝礼を受け、幼君への拝礼を自分にすりかえた。藤原鎌足、不比等のむこうをはる巧みさである。

 後継になり損ねた信孝は秀吉に抵抗したが退けられ、信雄より自刃を迫られ悲憤の生涯を終えた。その後、信雄は家康と結んで秀吉に敵対する。こうして小牧・長久手の合戦となり、秀吉と家康ががっぷりと組み合った。戦闘の上では家康・信雄のほうが有利であったが、戦略的には秀吉の手腕が勝った。

 八ヶ月に余る一進一退の攻防戦の末、秀吉は信雄に単独和睦を結ばせる。信雄の裏切り行為で、家康は秀吉と戦う大義名分を失った。この合戦の後、一五八五年七月に秀吉は従一位関白に就任する。家康もその官位の前には頭を下げざるを得なくなる。さらに翌年、太政大臣に任じられると同時に、関白について以来、藤原姓を用いていたのを改め、あらたに豊臣姓を賜った。天下一統を信長より受け継いで後、一五八五年に四国の長宗我部氏を落とし、八九年に九州の島津氏を屈服させ、九〇年小田原の陣で北条氏を滅ぼし関東を制圧した。そして九一年、奥州を平定し、ここに天下一統は成し遂げられた。

8.秀吉と魔界との関わり
  「より深い分裂への闘い」の段に、次のような内容を書いた。
 ・・・魔界が立てた代理人物とは、蘇我氏を象徴するのが織田信長、聖徳太子父子を象徴するのが徳川家康、藤原氏を象徴するのが羽柴秀吉ということになる。・・・しかし、魔界が操ろうとしても、その人物が実際に心で思い、行動をとらなければ、魔界の策謀の代理執行人という立場には立たない。誰にでも邪念があるとともに、良心があるからだ。だから、魔界が操ろうとして邪念に働きかけてきても、良心に立ち返り善行を積めば、魔界の代理人ではなくなるのだ。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の中で、その決定的な立場に立った人物は秀吉であった。明智光秀を破り、亡君の仇を討つという輝かしい実績を討ちたてた秀吉は、信長の後継を決定する重臣会議を牛耳るようになる。秀吉は直系相続を主張し、信忠の遺児である秀信を立てて推し切った。
 すでにこの時、秀吉の胸中には、織田家に変わって、自らが天下人となる策謀が描かれていた。会議の後、秀吉は三歳の秀信を膝に抱いて諸士の拝礼を受け、幼君への拝礼を自分にすりかえた。この時、秀吉は魔界の使者としての立場を、決定づけたのだ。

9.鎌足の立場に立つ秀吉
 「第一次抗争期」において、藤原鎌足は軽皇子を操り、蘇我入鹿を首謀者として太子の息子・山背大兄王を自害に追いこんだ。さらに、蘇我入鹿を中大兄皇子に打たせ、自らは影で権力を動かした。織田信長が本能寺で、明智光秀に攻め込まれ自害した。まるで山背大兄王が斑鳩宮で軽皇子の兵に追い詰められ、自害するように。さらにキリスト教を容認した織田信長自身を見れば、独裁専横だが仏教を重要視した蘇我馬子と重なる。
 俗説ではあるが、光秀を動かしたのは朝廷であるとか、家康と秀吉が結託して動かしたとか、あるいは秀吉の陰謀説など、種々あるが、ここでは行動がどのように結実したかと言うことが問題だ。本能寺においては信長だけではなく、その嫡男・信忠も死んだのだ。そして信忠の息子・秀信を後継にするといいながら、諸士が秀信を、信長の後継として認め拝礼する時、自らの膝に抱いて自分への拝礼に摩り替えた。この時、魔界のやからたちはほくそえんでいた。秀吉の姿が藤原鎌足に重なり、信長は蘇我馬子、信忠は蝦夷、そして秀信は入鹿の象徴として見えていた。秀吉は完全に「第一次」の鎌足の立場に立ち、未来永劫に続く恨みと憎しみの世界を創出するための、布石を打つ役割を担うようになるのだ。


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