10.全国的分裂への展開
南北朝分裂以降、南朝では諸皇子を諸国に派遣し勢力の挽回を策し、北朝の武士らと戦った。
一三三八年、北畠顕家が和泉で、新田義貞が越前でそれぞれ敗死した。北畠親房と義良親王・宗良親王らは、東国へ向かう途中、海上で暴風雨に遭って散々になり、義良親王は伊勢に吹き戻され、宗良親王は遠江に、親房は常陸に漂着するありさまだった。
一三三九年、後醍醐天皇は吉野の山に崩じ、義良親王が天皇の位についた。後村上天皇である。
畿内では楠木正成の子・正行らの軍勢が一時優勢に転じたこともあったが、一三四八年、正行が四条畷の戦で敗死したため、南朝は一時、勢いに乗った幕府軍に追われて吉野を捨て、大和の賀名生に移らねばならなくなった。このように戦局は南朝にとって日に日に悪化していった。
一三九二年、南朝の後亀山天皇が、北朝の後小松天皇に譲位するという形で南北朝が合一するまで、この状態は続いた。
11.分裂武力抗争へ
足利三代目の将軍・義満は一三九二年、南朝側に和平を呼びかけ南北朝の合体を実現して、内乱に終止符を打った。南北朝の動乱の過程で、守護により強い軍事指揮権が必要となるとともに、守護大名は年貢や段銭(税)を私的に調達して強大化していった。あげくの果てに、将軍に対抗する存在にまでなり、各地で反乱を起こした。
一三九一年、山名氏清による明徳の乱。一三九九年、大内義弘による応永の乱。一四三八年、足利持氏による永享の乱。一四四一年、赤松満祐による嘉吉の乱。このような強大な守護大名の反乱を、幕府はどうにか切り抜けたが、土一揆・国一揆は頻発していた。
やがて、室町幕府八代将軍・足利義政の継嗣をめぐって争いが起こる。将軍家だけではなく、官領の畠山氏や斯波氏にも同様の継嗣争いが起こった。将軍家や守護大名の継嗣問題は、彼らだけの問題ではなく、守護大名の重臣にも重大事であった。これらの勢力の利害が後継者の問題と絡み合って、事態を複雑なものにしていった。一四六七年、京都の御霊社の社頭で、畠山氏の継嗣を争っていた政長と義就とが衝突したことに戦端を発し、双方は京都の東と西に陣を構えた。応仁の乱である。
東軍は細川勝元を首謀とする足利義政と畠山政長、斯波義敏の二十四か国十六万の兵。西軍は山名持豊を首謀とする足利義尚、畠山義就、斯波義廉の二十か国九万の兵。西軍が不利と見られたが、守護大名・大内政弘が2万の兵をもって西軍に参ずると、伯仲する勢力となった。一四七三年、両軍の首謀だった細川勝元と山名持豊があいついで死ぬと、戦闘は小規模になり、一四七七年には諸勢力が京都から兵を退いて、ここに終わりを告げた。
乱を終えて、将軍家の威令が行き渡るのは、わずか山城一国というありさまで、権威は地に落ちた。
守護大名たちはその分国に戻ったが、これは、分国内まで波及した戦乱を鎮める目的のためでもある。実際の領国内は、守護代や有力家臣らの手によって領国化され、戦国大名へと脱皮しているところだった。
ここから、下の者が上の者を倒して行く、戦国大名たちによる下克上の世の中が展開していくようになる。
12.戦国争乱絶頂期
まず、将軍家から見てみる。足利氏の実権は、まず管領の細川氏に握られたが、次に細川氏の家臣である三好氏に取って代わられ、さらに三好氏の家臣・松永氏に代わった。
松永久秀は、主人の三好長慶の子・義興を毒殺し、幼い跡継ぎの下で専横をきわめた。ついで十三代将軍・足利義輝を襲って、これを自殺させる。
下克上の社会が最も激しいのは、畿内近国や関東であったが、後進地帯の東北や九州では、室町時代初期以来の勢力が、そのまま戦国大名への道を歩んでいる。細川氏と同じ管領であった斯波氏は、その領国の越前を家臣の朝倉氏に、尾張を守護代の織田氏に、遠江を家臣の甲斐氏にと奪われた。畠山氏も三好氏に河内を奪われるといったありさまだ。その他、全国各地に有力な戦国大名が現れるが、名前の知れた武将を幾人か掲載しよう。越後の守護代であった長尾景虎は春日山に拠って、上杉の姓を称し、入道して上杉謙信といった。
また、甲斐の守護であった武田氏は甲斐の領国化に成功、晴信は入道して武田信玄といった。彼は父・信虎を駿河に追放しているから、やはり下克上の社会の人といえる。謙信と信玄とは信濃の川中島でしばしば合戦を交えている。駿河の守護・今川氏は、斯波氏の遠江守護職を兼ねあわせて、次いで領国化し、さらに三河も合併した。今川義元は東海を制覇した勢いをかって西上し、京都に入ろうとする構えをみせた。中国地方では、安芸・周防・長門等の守護を兼ねた大内氏が、出雲の守護代・尼子経久と対立した。大内氏は山口を根拠にして、対明貿易で巨利をおさめて栄え、山口は東の北条氏の城下町小田原と並んで繁栄したが、守護代の陶春賢に滅ぼされた。この陶氏や尼子氏を滅ぼしたのは、初め尼子氏に、のち大内氏に属した武将の毛利元就であった。彼はついには中国地方10か国と豊前・伊予の一部を領有する大戦国大名に成長した。四国では、長曽我部元親が、土佐の一条氏、阿波の三好、伊予の河野氏などを討って四国統一を果たした。九州でも、薩摩・大隈・日向の守護島津氏、豊後の守護大友氏などは守護大名が戦国大名に脱皮した。
13.「第二次」の上皇による国政
平安時代中期より,釈迦の入滅時を前九四九年(本来は前383年485年説である)、正法(正しく教えが行われる)・像法(形ばかりになる)各一〇〇〇年とし,一〇五二年(永承七)末法を迎えるとの説が広く行われた。五三八年の仏教伝来から、ほぼ五〇〇年後と言うことになる。その説のとおりに、「第二次」は魔界の思うがままに、地上界の人々が動かされてしまう期間である。聖徳太子が摂政となった五九三年からの期間に、「第二次」において相当するのは、一〇八六年に始まった院政である。地上界に現れた現象のみを見ていれば、藤原氏に牛耳られていた執権を皇室が取り戻したように見える。しかしこれは、藤原氏によって皇室に注入された魔界の母性の血統が結実し、権力欲に執着する父性が確立したと言うことだ。そこで、息子を天皇とし、父は上皇として政権を握る院政が開始されることになる。
14.第一次・第二次における政権の転換
六四五年に蘇我入鹿が殺害され、中臣鎌足と中大兄皇子による大化の改新が始まる。鎌足は藤原の姓を賜り、政治に勇躍できるようになった。そして、息子・不比等の手によって、七二〇年ごろに律令国家が整備され、さらに七三八年には、天皇の后となった娘が生んだ孫が皇太子となり、不比等の立場は確固なものとなった。藤原氏にとっては、自らの権力の確立を図る期間であったが、魔界にとっては、分裂の世界を現出するための布石に過ぎなかった。藤原氏の娘達が続々と皇室に入っていくことを通して、魔界の母性のエキスが深く深く注入されるのだ。一人一人の娘達が、欲心が深いということではない。たとえ、愛情豊かで他者に対する思いやりに溢れた娘でも、欲望と陰謀の背景を持って后となっていくと言うことだ。わかりやすく言えば、深い因縁を背負って嫁いでいくということだ。
第二次において上記の期間に相当するのが、一一五七年の平治の乱で勝利した平清盛が、太政大臣となってから源氏に権力が変わり、一二二一年には承久の乱により幕府の権力が天皇を超え、一二三二年に北条氏によって御成敗式目が公布され、鎌倉幕府が確立するまでの期間である。「第一次」における魔界の目的は、国の中枢に関わる人々の心の内に、抗争を引き起こす邪心を植えつけるための、魔界の母性のエキスの注入であった。「第二次」においては、植えつけられた欲望のままに、抗争を引き出す環境を現出させることである。それは承久の乱で幕府軍が上皇軍を破り、幕府の権力が天皇にも勝るようになったことによって実現された。誰でも軍事力が勝れば、天皇をさえ超えることができる。それは、魔が神を超えてしまった象徴であった。
15.「第三次抗争期」への展開
「第二次抗争期」の結実は、肉親相食む壮絶な戦国時代である。だが、魔界の分裂の戦略は、これで終わりではない。武力を後ろ盾にして覇権を競い合うような戦いは、魔界においては初歩的なものだ。
互いの感情の亀裂を、宗教観や思想にまで高め、未来永劫にわたる恨みと憎しみの関係に、人間社会を突き落とすことが魔界の目的なのだ。たとえば、イスラエルとイスラムの関係のように・・・・。
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