20.魔界の手口
なぜなら、桓武天皇以降、天皇は男帝となり、皇子は限りなく増え続けた。嵯峨源氏、淳和源氏、仁明源氏、文徳源氏、宇多源氏と臣下に降りて、「源氏」を名のる皇子たちが増える。平氏も在原氏も、みな律令によって皇子として暮らすことのできなくなった皇子の臣下としての新しい氏なのである。この皇子たちの一部が関東に下って、地方の豪族と結びつき武士となるのである。考えてみれば奇妙なことである。天皇と直接に何の関係もない藤原氏が、天皇を戴いて中央に君臨し、天皇の御子たちが地方へと散って行った。
西暦一〇〇〇年からの第二次抗争期に入ると、藤原氏が築いた律令制によって、臣下へと下ってしまった源氏、平氏の武士たちが、やがて天皇から権力を奪い、闘争の歴史へと導いていくのだ。鎌足の陰謀は、まず敵の一部を味方に取り込んで戦わせ、相手を滅ぼし、利用するだけ利用して最後には取り込んだものも葬り去る。それはまさしく魔界そのものの戦略である。そのような策略を繰り返してきた藤原氏も、魔界に利用するだけ利用されて、やがて表舞台から消されていく。
21.変貌させられた太子の理想
聖徳太子が悟った天界側の勝利の秘訣である母性の確立を、魔界は阻もうとした。その天界と魔界の攻防は、推古天皇が太子の説く勝鬘経を理解できずに、邪心に囚われていったことを通して、魔界にとって最高の形で結実していく。太子が皇室をはじめ、日本の民に仏心に繋がる母性を確立しようとした戦略を逆手にとって、権力欲と野望が強く智略にも秀でた藤原鎌足を魔界は操り、欲心渦巻く陰謀の血統を皇室に注入していくようになるのだ。
藤原不比等は文武天皇に娘・宮子を后(きさき)としておくりこみ、さらにその子の首皇子(おびとのみこ)に娘・光明子をおくりこんだ。首皇子は即位して聖武天皇となるが、聖武天皇と光明子の間の子を次の天皇にできれば、まさに藤原氏の血統が皇室に入り込み「おもうつぼ」になる。
不比等はその権力で、光明子を后の最高位である皇后にした。これまでは皇后になるのは皇族出身者に限られていた。そして738年、聖武天皇は光明子が生んだ長女・阿倍内親王を皇太子に任命した。聖武と光明はその後も男子にめぐまれず、749年、阿倍内親王は即位し孝謙天皇となった。ここまで不比等の思うがままに進展したように見えるが、息子四人が疫病で死んでしまい、藤原の権力は一時衰えていく。不比等の策略が魔界のものとして実っていくのは、摂関政治が結実していくようになってからである。
ただこの時点では、聖徳太子父子によって抱かれた天界の理想と、藤原父子の陰謀を利用した魔界の闘いは、藤原独裁体制の基礎が不比等によって確立され、魔界側の圧倒的勝利に見えた。仏心の母性思想を根本に置いた太子の律令国家への理想は、精神的なものを除外し、権力で抑える律令国家へと変貌させられ、結実してしまう。
しかし、聖徳太子の心情を受け継ぐ山背大兄王の純粋な犠牲の精神を基として、神は律令国家の理想を太子本来のものに戻すべく、二人の魂の戦士を誕生せしめる。最澄と空海である。
22.桓武天皇の志
不比等没後、藤原氏の独裁の弊害として、政治、宗教がともどもに腐敗していった。その閉塞する時代に、状況を打開しようとする革新者が現れる。天応元年(七八一)に即位した桓武天皇である。桓武天皇がめざしたのは「律令制」の再編と、仏教の革新であった。律令制による権力は太政官にあるのではなく、あくまでも“天皇”になくてはならないと考え再編を進めた。
仏教の革新を進めるにあたって、桓武天皇は新しい宗教者を見出す。それが最澄である。比叡山延暦寺を根拠地とする天台宗の最澄に、桓武天皇は深く帰依し、新しい仏教を創造させようと期待したのだ。天皇親政の確立、そして、その精神的支柱となる新しい仏教の創造、それはまさに、桓武天皇が意図したかに関わらず、律令制を聖徳太子の描いた理想の姿に戻すことを意味した。
23.天界の使命者復活とは
自らの我欲と魔性に打ち勝ち、はじめて天界の使命を帯びた者となる。しかし、その使命者が魔界の攻勢に敗れ、憎しみや恨みを持ったり欲望に囚われたりして死んでしまい霊魂となると、その後に再び地上に使命者が立つにはとても困難な状態になってしまう。
魔界は使命者を追い詰めていく際に、ただ殺すのではなく、恨みの頂点に達するような状況を作っていく。聖徳太子の息子・山背大兄王子はまさにそのような状態に追い詰められた。しかし、彼は誰も恨まずに、むしろ下層に生きる者たちへの思いやりをもって亡くなっていった。
ゆえに、聖徳太子や山背大兄王子の意思を受け継ごうとする者が現れ、自らの欲心と魔性に打ち勝つものが現れたならば、その者が同じ天界の使命を受け継ぐようになるのだ。
24.最澄と空海
最澄が桓武天皇の信任を受け、社会的にも仏教界においても高い地位を得ていた頃、空海はまだ無名であった。空海は最澄よりも七、八歳ほど若く、山岳修業に黙々と励んでいた。当時の空海の足取りは記録に残っていない。
その空海が歴史に登場してくるのは、三十一歳で遣唐船に乗ることができ、中国に仏教を学びに向かうところからである。空海は第一船に乗りこんだが、第二船には最澄が乗っていた。最澄は桓武天皇の公認で、国を代表する僧として、海外視察のような半年とか一年の短期間のものであった。空海のほうは一介の留学僧でしかなく、二十年と言う長い期間が定められていた。
最澄は半年の間に天台山において、法華経、禅、戒律の三つを学んだ。そして日本に帰るために船着場に戻ったところ、遣唐船が出るまで一ヶ月ほどの暇があった。その一ヶ月の間、港の近くの寺院で密教を学んだのである。空海の目的は初めから密教にあった。空海はまず長安でインドの宗教や従来の仏教、あるいはサンスクリット語を一年数か月ほど学び、密教を理解するための準備をした。その上で、世界一の密教の師と言われる恵果和尚(けいかかしょう)と出会い、半年ほどの間で師の持てるすべてを学び取った。そして空海は入唐して二年の後に、日本に帰ることになる。
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