3.第一次抗争期(日本史の原型)−藤原氏による律令国家建国−      目次へ 前へ 次へ

18.藤原氏の出発
 中臣鎌足は死を前にした天智八年(六六九)十月十日、天智天皇の直接の見舞いを受け、十五日には勅使大海人皇子から「大織冠」と「大臣」の位を受け、さらに「藤原姓」を賜った。そして淡海の第で薨じた。時に五十六歳であった。藤原姓を賜ったことで、彼の子孫はもう中臣氏ではなくなった。従って神祗の職に縛られず、政治の世界に雄飛することができる。この二年後、天智天皇は没し、壬申の乱が起きる。この時、不比等は十四歳であった。聖徳太子を「律令国家」の創始者とすると、その完成者は藤原不比等である。

 彼は文武二年(六九八)、藤原氏を二つに分けて、不比等の子孫のみを藤原にとどめ、残りの藤原氏を元の「中臣」姓に戻し、藤原氏は政治を、中臣氏は神祗を司るという、表面、政治分離の立場をとり、内実は藤原氏が政治も宗教も掌握すると言う体制をとる。

 大宝元年(七〇一)には、日本で初めて完成した律令である「大宝律令」を作り、養老二年(七一八)、それをさらに改定して「養老律令」を作った。そして「古事記」「日本書紀」の事実上の編纂者となったのである。不比等は首尾一貫した緻密な計画に従って、聖徳太子以来の日本の理想であった「律令国家」を着々と創り上げていった。律令すなわち法律を作り、銅貨の鋳造、都の造営、「記紀」の編集という大事業を次から次へと行った。つまり不比等は聖徳太子が漠然と夢見た理想を現実化したのである。まさに、恐るべき力量である。不比等はこのように律令国家建設の完成者であったが、彼は決して自己および自己の一族の利益と矛盾するような形で律令国家を創ろうとはしなかった。つまり彼の創った律令国家は藤原氏にとってたいへん有利にできており、藤原氏の永遠の繁栄を図れるように創られていた。

19.不比等の策略・藤原権力への布石
 不比等の創った律令には“天皇の権力”というものが存在しない。唐の皇帝は律令によって権力の自らへの集中を図った。しかし、日本の律令においては権力の集中は天皇≠ノではなく「太政官」にあった。天皇≠ヘ「太政官」の上にある象徴的存在であった。だから、日本の天皇は女帝であるほうが望ましかった。さらには、皇子たちに政治的、経済的な力は与えられず、もっぱら文学に耽らざるを得ないようになっていた。それは明らかに、皇子たち、親王たちの政治力を「太政官」を支配する藤原氏の権力の下に置こうとする意図によって作られた「令」の規定なのである。このことは後の歴史に大きく影響した。皇子たちは次の天皇になるべき皇太子以外、生活の手段を持たないのである。三代、四代と続いていくうちに、その日の生活にも困るという状況に陥るのである。その結果、名誉としての“皇子”の地位を捨て、臣下に下らざるを得なくなる。臣下になって、律令制の中で役職に就けば、何とか食べてゆけるのである。平安時代になると皇子の臣籍降下はあたりまえのようになる。

20.魔界の手口
 なぜなら、桓武天皇以降、天皇は男帝となり、皇子は限りなく増え続けた。嵯峨源氏、淳和源氏、仁明源氏、文徳源氏、宇多源氏と臣下に降りて、「源氏」を名のる皇子たちが増える。平氏も在原氏も、みな律令によって皇子として暮らすことのできなくなった皇子の臣下としての新しい氏なのである。この皇子たちの一部が関東に下って、地方の豪族と結びつき武士となるのである。考えてみれば奇妙なことである。天皇と直接に何の関係もない藤原氏が、天皇を戴いて中央に君臨し、天皇の御子たちが地方へと散って行った。

 西暦一〇〇〇年からの第二次抗争期に入ると、藤原氏が築いた律令制によって、臣下へと下ってしまった源氏、平氏の武士たちが、やがて天皇から権力を奪い、闘争の歴史へと導いていくのだ。鎌足の陰謀は、まず敵の一部を味方に取り込んで戦わせ、相手を滅ぼし、利用するだけ利用して最後には取り込んだものも葬り去る。それはまさしく魔界そのものの戦略である。そのような策略を繰り返してきた藤原氏も、魔界に利用するだけ利用されて、やがて表舞台から消されていく。

21.変貌させられた太子の理想
 聖徳太子が悟った天界側の勝利の秘訣である母性の確立を、魔界は阻もうとした。その天界と魔界の攻防は、推古天皇が太子の説く勝鬘経を理解できずに、邪心に囚われていったことを通して、魔界にとって最高の形で結実していく。太子が皇室をはじめ、日本の民に仏心に繋がる母性を確立しようとした戦略を逆手にとって、権力欲と野望が強く智略にも秀でた藤原鎌足を魔界は操り、欲心渦巻く陰謀の血統を皇室に注入していくようになるのだ。

 藤原不比等は文武天皇に娘・宮子を后(きさき)としておくりこみ、さらにその子の首皇子(おびとのみこ)に娘・光明子をおくりこんだ。首皇子は即位して聖武天皇となるが、聖武天皇と光明子の間の子を次の天皇にできれば、まさに藤原氏の血統が皇室に入り込み「おもうつぼ」になる。

 不比等はその権力で、光明子を后の最高位である皇后にした。これまでは皇后になるのは皇族出身者に限られていた。そして738年、聖武天皇は光明子が生んだ長女・阿倍内親王を皇太子に任命した。聖武と光明はその後も男子にめぐまれず、749年、阿倍内親王は即位し孝謙天皇となった。ここまで不比等の思うがままに進展したように見えるが、息子四人が疫病で死んでしまい、藤原の権力は一時衰えていく。不比等の策略が魔界のものとして実っていくのは、摂関政治が結実していくようになってからである。

 ただこの時点では、聖徳太子父子によって抱かれた天界の理想と、藤原父子の陰謀を利用した魔界の闘いは、藤原独裁体制の基礎が不比等によって確立され、魔界側の圧倒的勝利に見えた。仏心の母性思想を根本に置いた太子の律令国家への理想は、精神的なものを除外し、権力で抑える律令国家へと変貌させられ、結実してしまう。

しかし、聖徳太子の心情を受け継ぐ山背大兄王の純粋な犠牲の精神を基として、神は律令国家の理想を太子本来のものに戻すべく、二人の魂の戦士を誕生せしめる。最澄と空海である。

22.桓武天皇の志
 不比等没後、藤原氏の独裁の弊害として、政治、宗教がともどもに腐敗していった。その閉塞する時代に、状況を打開しようとする革新者が現れる。天応元年(七八一)に即位した桓武天皇である。桓武天皇がめざしたのは「律令制」の再編と、仏教の革新であった。律令制による権力は太政官にあるのではなく、あくまでも“天皇”になくてはならないと考え再編を進めた。
 仏教の革新を進めるにあたって、桓武天皇は新しい宗教者を見出す。それが最澄である。比叡山延暦寺を根拠地とする天台宗の最澄に、桓武天皇は深く帰依し、新しい仏教を創造させようと期待したのだ。天皇親政の確立、そして、その精神的支柱となる新しい仏教の創造、それはまさに、桓武天皇が意図したかに関わらず、律令制を聖徳太子の描いた理想の姿に戻すことを意味した。

23.天界の使命者復活とは
 自らの我欲と魔性に打ち勝ち、はじめて天界の使命を帯びた者となる。しかし、その使命者が魔界の攻勢に敗れ、憎しみや恨みを持ったり欲望に囚われたりして死んでしまい霊魂となると、その後に再び地上に使命者が立つにはとても困難な状態になってしまう。
 魔界は使命者を追い詰めていく際に、ただ殺すのではなく、恨みの頂点に達するような状況を作っていく。聖徳太子の息子・山背大兄王子はまさにそのような状態に追い詰められた。しかし、彼は誰も恨まずに、むしろ下層に生きる者たちへの思いやりをもって亡くなっていった。
 ゆえに、聖徳太子や山背大兄王子の意思を受け継ごうとする者が現れ、自らの欲心と魔性に打ち勝つものが現れたならば、その者が同じ天界の使命を受け継ぐようになるのだ。

24.最澄と空海
 最澄が桓武天皇の信任を受け、社会的にも仏教界においても高い地位を得ていた頃、空海はまだ無名であった。空海は最澄よりも七、八歳ほど若く、山岳修業に黙々と励んでいた。当時の空海の足取りは記録に残っていない。

 その空海が歴史に登場してくるのは、三十一歳で遣唐船に乗ることができ、中国に仏教を学びに向かうところからである。空海は第一船に乗りこんだが、第二船には最澄が乗っていた。最澄は桓武天皇の公認で、国を代表する僧として、海外視察のような半年とか一年の短期間のものであった。空海のほうは一介の留学僧でしかなく、二十年と言う長い期間が定められていた。

 最澄は半年の間に天台山において、法華経、禅、戒律の三つを学んだ。そして日本に帰るために船着場に戻ったところ、遣唐船が出るまで一ヶ月ほどの暇があった。その一ヶ月の間、港の近くの寺院で密教を学んだのである。空海の目的は初めから密教にあった。空海はまず長安でインドの宗教や従来の仏教、あるいはサンスクリット語を一年数か月ほど学び、密教を理解するための準備をした。その上で、世界一の密教の師と言われる恵果和尚(けいかかしょう)と出会い、半年ほどの間で師の持てるすべてを学び取った。そして空海は入唐して二年の後に、日本に帰ることになる。

25.最澄と空海の決別
 一年ばかり先に帰ってきた最澄は、少しばかりかじってきた密教の重要性を感じていた。そこで空海が日本に帰ると、自分の名声赫々たる地位や年齢にこだわらず、自分の後継と目をかけていた泰範や他の弟子と共に、空海の下に弟子入りする。

 しかし、最澄は自ら建立した比叡山の経営が忙しくなり、間もなく泰範を残して比叡山に帰った。それ以降は空海から経典を借りて密教を学ぶようになる。やがて最澄が理趣教を借り受けたいと言う願い出を、空海が断ってしまう。空海は最澄にこんな手紙をしたためる。
「秘蔵の奥旨(おうし)は文を得ることを貴とせず、ただ心をもって心に伝えるにあり、文はこれ瓦礫なり。糟粕瓦礫を受くれば、すなわち粋実至実を失う。」密教を文字で解ろうとしていたら、何も得ることはできない。カスや石ころをつかむだけで、最も大切なものを失うのだ、と激しい調子の手紙である。これがもとで、二人の中は冷え始める。

 その二年数ヵ月後、最澄は空海の元に残してきた弟子の泰範に、比叡山に帰ってくれと手紙を書く。ところが泰範は密教のとりこになり帰る意志がなくなっていた。その泰範に代わって断りの手紙を空海が書くに至って、空海と最澄の間は断絶してしまう。

26.藤原氏権力確立と天皇家の血統への分裂の母性注入

 最澄と空海が分裂し天界が地上に働く基盤はどこにもなくなった。魔界は思うがままに地上を動かしていくことが可能になり、国の実権は朝廷から、幾多の政争をへて再び藤原氏へと動いていくことになる。

 嵯峨天皇は八二三年に弟の淳和天皇に譲位した後、30年近く上皇として政治に睨みを利かせた。この間に藤原北家の藤原良房が嵯峨上皇の信任を得て急速に台頭し始めていた。良房の妹順子が仁明天皇の中宮となり、その間に道康親王が生まれた。良房は道康親王の皇位継承を望んだが、皇太子には仁明天皇の兄・淳和天皇の皇子恒貞親王が立てられた。

 当時の皇位継承のパターンは「兄」→「弟」→「兄の息子」→「弟の息子」の順になっていた。この慣例は「天皇の在位期間が短い」「藤原氏の血を引く皇子ばかりが天皇になりにくい」という特徴を持っていたので、天皇の親戚として権勢をふるう藤原氏にとっては都合が悪い慣例だった。

 そこで藤原良房は、八四二年に嵯峨上皇が崩御すると、策謀をめぐらせて、皇太子となっていた恒貞親王を謀反ありと廃しさせた。また恒貞親王を擁立していた、伴健岑・橘逸勢をはじめとする関係者を逮捕・流罪とした。

 この承和の変以降は、良房の思惑どおりに、親から子への直系に継承されていくことになる。また謀反人逮捕に活躍した藤原良房はますます権勢をふるうようになり、応天門の変で決定的なものとした。

 藤原良房は娘・明子を宮中に入れ、皇室の外戚となった。氏族が権力を独占し、その絶対的優位を保つためには、一族が朝廷の高位高官を独占することと、皇室の外戚になることが最も有力な手段とされていた古代国家において、藤原氏は他氏排斥に力を注ぎ、たえず政治的陰謀を企てた。

 八五七年、良房は太政大臣となり、娘・明子の生んだ清和天皇が九歳で即位すると、外祖父として、八五八年に摂政に任ぜられ幼少の天皇に代わって政治をみることになった。古来からの名族は没落し、藤原氏に対抗できる有力氏族はすべて除かれた。

 さらに八八〇年に息子・基経が人臣最初の関白となり、事実上、最高の政治権力を持つようになった。藤原氏の摂関政治は全盛へと向かう。

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