2.第一次抗争期(日本史の原型)−蘇我氏と中臣氏-         目次へ  前へ  次へ

5.愛の象徴体・恨みの象徴体

聖徳太子の父・用明天皇は三十一代天皇であり、蜂子皇子の父は三十二代目の崇峻天皇である。崇峻天皇は、臣下でありながら当時最大の実力者である蘇我馬子と対立を深め、この馬子の策略で暗殺されてしまう。当然、皇位を継ぐ可能性のある蜂子皇子も殺されかねない立場となった。聖徳太子は蜂子皇子をかくまい、飛鳥の外へと逃がす。その際、聖徳太子は皇子に仏門の修業を勧める。

仏門に入った皇子は「弘海」と名乗り、諸国を旅する。その旅の果て、東北地方の現在の山形県に来たとき、三本足の大ガラス(八咫烏)が現われ皇子を導き、彼はそこで観世音菩薩を発見する。皇子はそこを修業の地と定め、カラスにちなんで羽黒山と名付けた。厳しい修業により霊力を持つに至り、能(よ)く人の苦を除く、ということで能除太子とあがめられるようになった。

伝説ではおおかたそのように表現されているが、当時、山形の酒田は都と結ばれた港を持ち、繁栄し、東北では最も基盤のある地であった。そこに聖徳太子の意図もあり、太子の側近の秦一族(八咫烏と象徴される)をともなって国造りの意図を持って入ってきたと言えるのだ。

歴史の表舞台で活躍した聖徳太子を「光の太子」とすれば、裏舞台で秘められた力を発揮した能除太子を「影の太子」と言うことができる。影の太子・蜂子皇子による出羽三山神社の開祖の年は、光の太子・聖徳太子が摂政に任じられた年と同じ紀元五九三年である。やがて、聖徳太子の意志を受け継ぐ山背大兄王子が斑鳩宮に追い詰められ自害し、地上にその足場をまったく失った聖徳太子の魂はどこに向かっただろうか。神と天界はひとつだけの戦法で摂理を進めようとするわけではない。第二、第三の布石を打って進める。その時、国中枢に向けての摂理とは別に、闇の能除太子が開祖となった出羽三山の地に天の布石は打たれた。

本来、霊力の高い蜂子皇子が天皇となり、知的企画力にたけた聖徳太子が教理的にサポートし、和の国を造り上げるのが理想ではあったが、蘇我馬子が崇俊天皇を暗殺した時点で崩れ去り、国造りの道のりは紆余曲折の闘いを展開するようになったのである。

6.日本史の原点

日本の歴史の原点を形づくる三者は、蘇我馬子と推古天皇と、その二者を協調させるために立った聖徳太子であった。時の権力者・蘇我馬子に見出された聖徳太子は、六〇四年に十七条憲法を制定する。その中で最も強く謳われたのは、最初に掲げられた「和をもって尊しとなし」と言う項目だった。和をもたらすために重要なことは、神様の願いにかなう母性の伝統を作ることであった。命を誕生させることは神の領域であり、魔には決してできないことである。人間の生命が生まれたその瞬間から、魔はその人間を奪おうと働きかけてくる。自分のことよりも他者を思う人間になるか、自分の欲望を先立てる人間になるか。もはや母の胎内にいる段階から、魔界は母を取り巻く恨み多い環境を作り出し、憎しみを母にも子にも注入しようとしてくる。

 だからこそ、世の中に「和」をもたらす女性への真の教えを広めることが重要な意味をもち、後代に受け継がれることが必要になる。
そのために太子は、推古天皇に仏教の本質を理解してもらおうと試みる。推古十四年、天皇に勝鬘経を講義するのだ。勝鬘経の主人公は、インド北部にあった大国コーサラの国王の娘で、隣国の王妃となった勝鬘(シリーマーラー)夫人である。彼女が釈尊の面前で大乗の教えを開陳すると、釈尊は賞賛の言辞を挟み、その通りだと是認されるという筋書きになっている。それは彼女が大乗仏教のすぐれた実践者であることの証しそのものだ。つまり勝鬘経とは、仏の心を目覚めさせた女としての心得をさとしながら、すべての人間が仏になる可能性を認めている経文なのだ。なぜ女の心得なのか。

7.愛の勝鬘経

 それは人間に仏心、あるいは神性と言ってもいいが、霊性が高められていくためには、母の胎内に宿されたときから注がれ続ける母性愛が重要なのだ。その心の土台がなければ、どんなに厳しい修行を行おうとも、仏心とも言える犠牲的愛を実感することは難しい。
 
 つまり天界は女性の母性愛を仏教の教えにより啓発させ、天の使命を受けるにふさわしい器を持つ男たちを、この日本に誕生させようとしたのだ。魔は男の権力欲に直接働きかけて分裂させ、恨みと憎しみの渦巻く世の中に貶めようとする。天は人間の心の根っこから、魔が働く要素を取り除こうとする。推古天皇が聖徳太子の期待通りに教えを受け止め、すべての女性の教えとして広めようとしていたならば、魔界の力は大きく後退するはずだった。魔の攻勢が続いていた日本の歴史に、天ははじめて、聖徳太子を通じて精神的基盤を作り、天が攻勢に出る起点を立てようとしていた。

8.太子の天皇への道
 推古十五年(六〇七)、始めて推古天皇が太子を自分の後継者として認めた。天皇は息子である竹田皇子の早逝により自ら即位し、竹田皇子の弟の尾張皇子を皇位につけるべくその成長を待っていた。しかし、六〇七年の少し前、尾張皇子も世を去り、後を継ぐ男の子がいなくなった。推古天皇は悩んだ末、聖徳太子を後継にすることを決めた。血筋は卑しいが、仏教を普及させ、豪族を統一しつつあり外交もまずまずで、太子には実績があった。

 ここに朝廷での指導的地位を確立した太子は、さらに情熱的に政治に取り組んでいく。一方、太子は仏教の教えを後世に正しく伝えたいという熱意にかられ、推古十九年に「勝鬘経義疏」、二一年に「維摩経義疏」、二三年に「法華経義疏」を著し、まとめて「三経義疏」と呼ばれている。太子の生き様に現れた仏教の解釈は、のちに日本に現れてくるさまざまな仏教に大なり小なり影響を与えていく。ゆえに日本のあらゆる仏教宗派より、「和国の教主」「日本仏教の開祖」として尊ばれるようになる。

 以後、推古二八年、太子は馬子と協力して「天皇紀」「国記」などの国史を編んだ。推古二〇年代の政治はほとんど太子一人の手のよって動かされていたと言っていい。太子は推古天皇の没後には自ら皇位を継ぎ、やがては息子の山背大兄王に皇位を継承させることになることを確信していた。
 ところが推古三〇年(六二二)正月二十二日、太子は発病し二月二十二日に没してしまった。

9.太子にとっての「和」
 推古二〇年代の政治をほとんど一人で動かしていた太子・・・。やがて息子の山背大兄王が皇位を継ぎ、「和」の政治が行われる国ができるかのようであった。その順風に見えた太子が、なぜ突然に病に伏し、没しなければならなくなったのか。推古天皇はあくまでも自分の息子に皇位を継がせようとしていた。太子の能力や思想がどんなに素晴らしかろうが、自分の息子への執着を超えれるものではなかったのだ。つまり推古天皇は、太子から直接にその思想の講義を受けながら、本質を一切理解していなかったのだ。太子の背負う使命的な立場も理解することなく、自分の欲や執着を超えれなかった。このことは何を意味するのだろうか。太子は推古天皇の心の内に潜む魔の要素を、屈服させることができなかったのだ。天が働くことのできる「和」とは、相手の心の内の魔を屈服させ、目的と情念を一つにしてこそ、初めてもたらされるものなのだ。天の使命を受けた者にとって、自分の立場を心から支える人物が得られなければ、その存在基盤を失うこととなる。厩戸(うまやど)王子と呼ばれることから、よく取り沙汰されるイエス・キリストも、まさにその存在基盤を失ったことから十字架に架けられることとなった。

「和の国」への起点を作れなかったことによって魔界の攻勢が展開され始め、政治と権力の中枢は分裂へと落ちていくことになる。

10.蘇我 対 中臣
 天界の願いは、推古天皇と蘇我馬子が聖徳太子の思想を理解し、自己の欲望に勝ち、国の未来を造る政務に臨んでいくことであった。ところが、二人とも自己の心の内に潜む魔に打ち勝つことができないまま、要である聖徳太子を失ってしまった。地上界の人間の心に、活動の基盤を失ってしまった天界は、その勢力を退かざるを得なくなる。そこに魔界の勢力が広がりはじめ、聖徳太子の意思をただ一人受け継いだ人物を追い詰めていくようになるのだ。その人物とは太子の息子の山背大兄王子である。太子の下に、推古天皇と蘇我馬子が心一つにして政務に当たっていたならば、推古天皇のもとで神事を司っていた中臣氏と、蘇我馬子の孫が心を一つにして、山背大兄王子を支える土台ができるはずだった。中臣と蘇我は、そのまれに見る叡智と能力で山背大兄王子を支え、聖徳太子が夢見た律令国家を具体的に実現していくことができたのだ。ところが中臣も蘇我も、自己の心の奥からこみ上げる権力欲に駆られて分裂し、聖徳太子が描いた理想とはまったく逆の国家が造られて行くことになる。

 これから、その分裂の過程を見ていこう。
 

11.推古と馬子の対立
 聖徳太子を失った朝廷には、さまざまな混乱が広がり始め、大使の指導力のもとに抑えられていた、推古天皇と蘇我馬子との対立が表面化してきた。天皇権力を強化しようとする推古天皇は、有力豪族である蘇我氏の勢力拡大を歓迎していなかった。日頃より馬子が除かれれば、自分の意のごとくに政治を行ないうると考えていた。それに対して用心深く律義な馬子は、これまで何とか彼女を立てて協調関係を保ってきたのだ。だが、その間に馬子の胸のうちにも天皇への不満が蓄積されていた。推古三二年十月、馬子が天皇に蘇我氏とかかわりの深い葛城県(かつらぎのあがた)を蘇我氏の領地とすることを願い出た。天皇は馬子の願いを退ける。このころから天皇は馬子を遠ざけるようになり、馬子の娘を母とする太子の息子・山背大兄王をも退けたいと考えるようになった。
 太子の業績と、馬子が山背大兄王の才を高く評価していたことから、朝廷では山背大兄王が推古天皇の後継者として最有力視されていた。
 だがこの頃になると、太子の政治に不満を抱いていた者や伝統的な皇位継承法の護持を主張する者が、敏達天皇の嫡系の子孫で人物も良い田村皇子を押すようになっていた。推古天皇は蘇我氏に反感を持つ阿部氏、大伴氏、中臣氏らとともに田村皇子を押す決心を固めた。

12.推古・馬子の没後
 推古三四年(六二六)蘇我馬子が没する。馬子の息子・蝦夷は混乱し分裂する朝廷の中で、ようやく自己の地位を保つにすぎなかった。そうした蝦夷の弱さを見抜いた推古天皇は、山背大兄王のような有能な人間を皇位につけると、天皇が意のごとく政治を行い、蝦夷は不要な存在になってしまうと脅しをかける。他の豪族が黙っていないとも脅しながら、田村皇子を押せば、阿部、大伴といった豪族が大臣・蝦夷を助けて朝廷がうまく治まると懐柔した。蝦夷は山背大兄王を退ける決意を固める。
 推古三六年(六二八)推古天皇が没すると、田村王子の皇位継承を決定していた豪族連合軍と、山背大兄王を支持する境部臣真理勢を中心とした人々との間に激しい戦いが起きる。連合軍の優勢は崩しがたく、馬子の息子・蝦夷の送った兵士に、馬子の弟である真理勢とその子らは殺された。紛争の後、山背大兄王は朝廷から退けられた形で斑鳩宮に隠棲する。そして田村皇子が即位し舒明天皇となった。

13舒明天皇没後
 舒明天皇没後、舒明天皇の皇后が即位し皇極天皇となる。皇極天皇のもとでは蘇我蝦夷にかわって、その息子・入鹿が力を持つようになる。この頃、統制を失って混迷する政治に対して、聖徳太子の執政期を懐かしむ声が起こり始める。そのような人々は太子の息子・山背大兄王が政治を担当することを望むようになる。皇極天皇にとっても敏達系の皇族と結びついた有力豪族たちにとっても、今さら山背大兄王に登場されてはたまらない。ついに皇極二年(六四三)十一月、天皇の弟の軽皇子は敏達系の皇族と蘇我、巨勢、大伴、中臣、士師といった有力豪族を糾合して山背大兄王を攻撃せしめる。入鹿が首謀者にまつりあげられたが、実際攻撃に向かったのは軽皇子の側近である巨勢徳太であった。巨勢徳太を中心とした軍隊が突然、斑鳩の山背大兄王の宮を襲った。山背大兄王は一計を案じて宮に火をつけ、生駒山に逃げた。
 しかし、山背大兄王は太子の情念を受け継いだ平和主義者であった。彼は戦いが百姓を巻き添えにしてしまうことを思い計って、再び寺院に帰る。兵たちは寺を包囲した。山背大兄王は「我が身を入鹿に賜う。」と言う言葉を残して一族とともに自害する。山背大兄王暗殺事件の主役を演じた蘇我入鹿も軽王子も、彼らを躍らせている影の魔手に気付いてはいなかった。やがて二人はそれぞれに、その魔手によって悲惨な姿で葬り去られていく。日本の歴史は形の上では律令国家をとりながら、聖徳太子の描いた理想とはまったく相反する方向へと動き始めたのだ。

山背大兄王を自害へと追い詰めた蘇我入鹿や、軽王子を躍らせた影の魔手とは、はたして誰なのか?

14.中臣鎌足登場・分裂し精神的核崩壊
 蘇我入鹿の専横は山背大兄王とその一族を滅ぼすなど、目にあまるものとなり、天皇家をしのぐほどになっていた。
 そこで中臣鎌足は中大兄皇子を助け、天皇を中心とした中央集権国家をめざし、六四五年(大化一年)に蘇我入鹿とその一族を倒し政治改革に着手した。これは大化の改新と言われ、鎌足はその功績を朝廷より認められ、死の直前に藤原の姓を賜ることになる。
 ほとんどの歴史書に、中臣鎌足は律令国家の礎を築いた功績者として掲載されている。確かに、鎌足の一時代だけを見ればそのように見える。しかし、霊界との関係から、魔界と天界の抗争として歴史全体を見ていくと、違った見方が出てくる。
 ここで霊的に与えられた真実な情報が、そのまま文字で表されたような著作を紹介する。梅原猛氏の「隠された十字架―法隆寺論―」である。その著作から、中臣鎌足に関する部分を要約引用して掲載させていただく。



15.隠された十字架より
 山背大兄王暗殺から二ヵ月後、ほとんど独裁的な立場に立っていた蘇我入鹿は、無名の青年であった中臣鎌足を神祗伯に任じた。ところが鎌足は神祗伯と言う異例の抜擢を断り、その足で軽王子を訪問する。鎌足は以前から軽皇子の政治顧問であり、軽皇子自らが参加した一大陰謀を知らないはずがない。むしろ入鹿と軽皇子を結び、山背大兄王殺害の陰謀を計画したのは、この稀代の知恵者である若き政治顧問の頭の中においてではなかったか。入鹿と軽皇子とそれぞれに、山背王殺害の利益の一致を説得した策士として、影の主役であったに違いない。鎌足の神事職最高位の神祗伯抜擢は、こういう陰謀者に対する論功行賞ではなかろうか。
 しかし鎌足は、たかが神祗伯という地位に満足するような男ではなかった。神祗伯を辞して仕えず、軽皇子のもとを訪れる。軽皇子は入鹿と組んで山背王を殺したが、不安で一杯になっていた。非道な行為が世の非難をかうかもしれない。あるいは、入鹿の猜疑の目が彼自身に向けられるかもしれない。そのような軽皇子に、鎌足は限界を感じ絶望した。
 軽皇子は孤立していた山背大兄王を殺すというような役ならできるが、巨大な権力を持つ入鹿を殺害できるような男ではない。入鹿殺害のためには、緻密な計算と無鉄砲な勇気が必要であり、鎌足はこの勇気の持ち主を当時十八歳の中大兄皇子に見たのだ。彼は山背大兄王殺害を軽皇子と共にやり、入鹿殺害を中大兄皇子と共に実行し、そのクーデターの後に先の山背大兄王事件の功績者・軽皇子を皇位につけたのであろう。

16.魔界の手に落ちた叡智
 天界に存在する天使や善霊が地上人に影響を及ぼし、守護したり導びくことができるには、その地上人が自らの自己中心な欲望に打ち勝った状態でなければならない。人間が邪念と良心を兼ね備える状態では、天界は影響を及ぼせずに、魔界が働きかけている状態なのだ。
 この時代にただ一人、天界が働くことのできる聖徳太子は、自らを支える立場の人物たちを感化して、魔の要素に打ち勝てるよう指導しなければならなかった。それができなかったがゆえに、聖徳太子とその息子以外には天界が働くことができなかった。魔界は支える基盤を作れなかった太子の命を奪い、重要人物たちの欲望の隙間に入り込んで思いのままに動かしていくようになる。蘇我入鹿は独裁欲にかられ、中臣鎌足も権力欲にとらわれていくことになる。中臣鎌足が最初の動機は国を思ってのことであったとしても、魔界は正義を思う心さえ利用して、巧妙に欲望の虜としていくのだ。鎌足は稀に見る才覚の持ち主であったが、それが魔界に利用され、決して表に出ずに裏で巧妙に糸を引く、魔界のやり口の権化と化してしまう。

17.鎌足の策略の結実
 軽皇子は即位して孝徳天皇となるが、やがて見捨てられていく。白稚四年(六五三)、皇太子の中大兄皇子は、孝徳天皇の姉である前帝の皇極天皇および孝徳天皇の妻・間人皇后等をひきいて、飛鳥へ都を遷してしまう。孝徳天皇は完全に孤立し難波に取り残され、怒りのうちに死んでいく。
 その後六五五年、ここで皇極上皇は再び斉明天皇として復活する。中大兄皇子は鎌足の勧めで、その身を影において君臨する。斉明天皇没後、中大兄皇子は即位して天智天皇となる。天智天皇は日本最初の律令である「近江令」を制定する。六七一年、天智天皇が没すると壬申の乱がおき、天智天皇の弟・大海人皇子が即位し天武天皇となる。天武天皇は「飛鳥浄御原令」を制定する。

 そして天武天皇没後、その皇后である菟野皇后(うののこうごう)が六九〇年に即位し持統天皇となり、そのもとで鎌足の次男の不比等(ふひと)が頭角を現してくる。皇位と政治権力をめぐる争いは、血で血を洗い激しく展開される。持統政治は大津皇子殺害から始まり、その他四人の皇子を排斥していく。そのような争いの陰で、あるいは争いを操りながら、蘇我氏を滅ぼした鎌足の息子・不比等は絶対的権力を確立していくようになるのである。

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