11.第三次抗争期(逆転に次ぐ逆転)−日本における十字架の道 −        目次へ   前へ 
 

24.二度目の黎明
 これで第一次抗争期において、天界が敗北に至る過程の出来事を、すべてもとがえした。まさに日本は、二度目の黎明を向かえる。つまり、聖徳太子が歴史の起点とし、具体的な律令国家の創生に踏み出した六〇〇年の状況に帰ることができたのだ。六〇〇年を境として、聖徳太子は「和の国」の実現のために、具体的な政策を展開していった。明治維新以降、聖徳太子父子の位置に立った西郷隆盛は、彼が言うところの「共和政治」実現のために乗り出さなければならない状況へと、いやおうなしに展開していくのだ。       
 西郷の努力の結果はどうなったのか。魔界も簡単には引き下がらない。存在する限り、天界に対して激しい攻勢をかけてくるはずだ。

25.窮地下の母性の結実・天下ト公共ノ政
 聖徳太子の時代に、「和の国」への理想を砕いた蘇我入鹿や藤原鎌足・不比等と、明治維新を導いた西郷隆盛、勝海舟、坂本龍馬、さらには横井湘南の違いはどこにあるのだろう。入鹿・鎌足・不比等は、自己と自分の氏族の繁栄に固執した策略を駆使したが、西郷・勝・坂本等は自己を越えて、日本と民の未来のために命がけでのぞんだ。これはもはや、一人の人間としての、人格の違いと言えよう。聖徳太子が目指した「和」をもたらすためには、私欲を超えて公に立つことのできる、品性ある人格を養わなければならないと言うことだ。その足がかりとして、太子は子供を育てる母性の重要性を広めようとした。だが、藤原氏が台頭して、謀略にまみれた魔性の母性のエキスを、皇室に注ぎ込み続けた。

 「第二次抗争期」にはいり、魔性の母性のエキスは欲望に突き動かされる父性として実り、上皇の院政が始まり、やがて武力で権力を奪い合う時代へと進んでいった。では、この闘争の歴史の過程に、「和」をもたらした西郷・勝・坂本の心を育んだ母性は、どこから注がれたのだろう。

 最澄と空海が分裂し、天台宗と真言宗はその後、さまざまな宗派に分かれながら民衆に浸透していくことになる。とくに天台宗は最澄の没後、天台宗第四祖・円仁と第五祖・円珍の名僧が対立するようになり、幾宗派にも枝分かれしていくことになる。鎌倉時代へと進む中で、法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、一遍の時宗、日蓮の日蓮宗、栄西の臨済宗、道元の曹洞宗などが登場し、士農工商のあらゆる階層に浸透していくようになるのだ。その民衆に浸透していった仏教が、日本の底辺にある人々の母性を耕していくことになる。その母性の実りとして歴史に登場した人物こそ、勝海舟であり、坂本竜馬、西郷隆盛である。その三人が、即身仏たちが築きあげた大きな天運のもとに活躍する事になるのだ。

26.明治維新以降

一八六八年の明治維新により、空海・最澄の分裂の失敗を、西郷・勝・坂本の三者で元に返して魔界に対する勝利の礎を築いた。しかしその後、明治政府を崩そうとする魔界からのさまざまな試練が襲い掛かる。

明治維新直後の新政府の中心人物は、公家の三条実美、岩倉具視、長州藩出身の木戸孝允、そして薩摩藩出身の大久保利通の四人であった。明治政府には次々と困難な問題が生じてくる。政府の要職を占め、厚い恩賞を受けた薩摩・長州藩出身者への他藩の嫉み・・・。薩摩・長州間の新政府ポストをめぐっての派閥争い。官僚たちは権力におごり、旧大名のような驕奢な生活に落ちていた。全国各地で重税に苦しむ農民らが蜂起し、一揆が続発。頭を痛めた四人は、鹿児島の西郷を呼び、政府の中心にすえ、彼の徳望を持って事を治めることにした。

明治四年(一八七一)、西郷は参議に任じられる。新政府は西郷のもとで次々と難問題を解決し、明治維新の総仕上げというべき廃藩置県を成し遂げる。その後、新政府の重要ポストにいた岩倉具視、木戸孝允、大久保利通は百名を超える大洋行団をともない、ヨーロッパ、アメリカなどの文明諸国視察に出かけてしまう。政府の運営はすべて西郷に任されたが、明治政府がやらなければならなかった諸改革のほとんどが、この西郷内閣で行われることとなる。

明治六年、西郷は鎖国状態にある朝鮮と交渉すべく、朝鮮使節の全権大使に任命された。西郷は戦争をしないために平和的使節としての派遣を願っていた。ところが、その任命直後に、洋行から帰った岩倉具視と大久保利通が、西郷の前に立ちはだかる。岩倉と大久保は、再び閣議を開き、西郷の朝鮮派遣に反対の意見を述べるが、結局西郷の主張が通り、西郷派遣が正式決定された。しかし、岩倉は閣議で決定された事を秦上せず、西郷派遣反対を天皇に秦上した。こうして、岩倉の策略により西郷の朝鮮派遣は潰され、西郷は参議を辞職することになる。

27.魔界の攻勢・追いつめられる西郷

一八七三年十月、明治維新による歴史的な勝利の礎は、西郷が遣韓論の争いが原因で政府を離れてしまったことによって失われてしまう。魔界は天界の日本への足場を完璧に奪うために、西郷を絶体絶命の立場に追い込もうとする。霊的な戦いなので、魔界の目的は単に命を奪うことではない。ぬぐい去れない恨みを、魂に焼き付けて霊界に送ることだ。そこで魔界が立てた戦略は、西郷の辞職後、政府の中心に座った朋友・大久保利通と西郷を抜き差しならぬ恨みの関係にすることだった。己の運命を呪い、天を呪う。西郷の魂まで魔に蝕まれたならば、再び、空海ならびに西郷に代わる使命者を立てることは困難になる。つまり、天界は日本においての戦いの術を失ってしまうということだ。

一八七四年に入ると右大臣の岩倉具視が不平士族らに襲われ、二月には、江藤新平が佐賀で反乱を起こす。また、明治政府による台湾征討が行われた。西郷が去った政府は、国内外の重大問題にみまわれる。そんな折、鹿児島に帰った西郷は、彼の後を追いぞくぞくと帰郷した青年らの教育機関として私学校を設立していた。

明治九年(一八七六)にはいると、各地で不平士族の乱が続発する。熊本において不平士族が神風連の乱を起こし、福岡県では秋月の乱、山口県では萩の乱が起きた。反政府運動が頻発して起こる中、鹿児島にいた西郷は政府改革を願いながらも、微動だにしなかった。

一八七七年一月、その西郷の近辺には、かつての朋友・大久保利通が西郷の命を奪おうと、暗殺者を送っているという情報が駆け巡っていた。私学生たちはこの情報を確かなものと受けとめ、武器を隠れて輸送しようとしているという理由で、一月三十日に陸軍省の火薬庫を襲った。大久保の挑発にまんまと乗ってしまった形になってしまった。

28.西南戦争

これが西南戦争の引き金となる。憤る私学生を率いる桐野利秋等の側近に向けて、西郷は「おいどんのからだを、おはんたちにあげまっしょう」と言った。かつて西郷は天の声を聞いて明治維新を成し遂げた。西郷だけではない。勝海舟も、坂本竜馬、横井湘南、そしてかつては大久保利通や木戸孝光さえも、天の声に共鳴していたのだ。しかしこの頃の日本に、西郷の心の深奥に聞こえてくる天の声に、同じように共鳴する心を持つ者は誰もいなくなっていた。政府の者は権力におぼれ、反政府の者は怒りと嫉妬に染まり、魔界の攻勢に魂を蝕まれていた。西郷の前に魔界が差し出してきたのは、日本に渦巻く邪念の十字架であった。「怨念に身を任せて、戦いに望め。」「裏切り者の大久保を八つ裂きにし、お前が権力の座に就け。」

そんな魔界の声にまぎれて、かすかだが確かに西郷に聞こえてきた、残されたただ一つの天の戦略・・・・。敬天愛人の心を胸に、神の十字架に身を委ねることであった。その思いが言葉になったのだ。「おいどんのからだを、おはんたちにあげまっしょう。」

西郷の死出の旅路は始まったのだ。ゴルゴダの丘に向けて、イエス・キリストが十字架を肩に負い、歩いた道行に似て・・・・。西郷は一切戦略は立てなかった。ただただ、桐野を中心とする側近たちのなすがままにまかせていた。もし西郷が、全国に向けて政府改革の命や願を出していたならば、おびただしい人々が決起しただろう。その戦力で西郷自身が戦略を立てていたならば、はたしてどうなっていただろうか。しかし、西郷は何もせず、天にすべてを任せていた。

決起した二月中旬には一万名を数えていたが、八月には政府軍との激戦につぐ激戦で半減していた。見えない十字架を背負う西郷の背後には、日本の未来をかけた天界と魔界の激しいかけひきがあったのだ。それは西郷自身の心の闘いであった。歴史には魔界と天界、あるいは、聖人や義人を通しての神と魔が戦ってきた足跡がある。それぞれが背負う使命の大きさによって、世界的な次元か、民族的な次元かなどの違いはあるにせよ、残された足跡から神の戦略や、魔の手口を学ぶことができる。それに、一つ一つの戦いを見れば、次元の違いがあるように思われるが、第一の戦略で結果が実らなければ、第二、第三と布石のあるところに最前線は移行する。その上、いつ移行してもそこが最前線となれるように、布石の打たれているあらゆるところで戦いは展開しているのだ。

西南戦争において、もはや西郷はすべてを天にゆだねて戦っていた。魔界は天界の日本への足場を完璧に奪うために、西郷を絶体絶命の立場に追い込む。霊的な戦いなので、魔界の目的は単に命を奪うことではない。ぬぐい去れない恨みを魂に焼き付けて霊界に送ること・・・。天の使命者としての中心人物が、心を魔に奪われたならば、もはや天界の行く道は閉ざされる。

長い戦いと逃避行の末に、薩摩に帰った西郷軍は、城山に追い詰められた。わずかに残った西郷軍三百八十名を、五万八千の政府軍が取り囲んだ。九月二十二日、西郷の右大腿部と腹部に弾丸がめり込むと、彼は言った。「普どん、もうここでよかろ」別府晋介の介錯の刃が振り下ろされた。

西郷は何者をも恨まなかった。ただ一人、天と同じ境地で、日本を抱きとめていた。その心は、日本が世界を抱きかかえる母性の国となる心情の土台を残したのだ。

 29.分裂を呼び込んだ者

 薩摩藩において幼いころからの朋友であり、明治維新を一心同体のようにして成し遂げた西郷と大久保の関係が、何故に崩れたのだろうか。そこには、かつての藤原鎌足や豊臣秀吉のように、分裂を招く歴史的な策士が存在したのだ。

二人は征韓論政変によって分裂していくが、その陰で暗躍したのが木戸の元にいた長州藩の伊藤博文であった。伊藤博文は、留守政府内で追及されていた長州藩の汚職問題をかわす為、「大久保を政府に復帰させ、西郷の朝鮮使節派遣案を反対させて二人を対立させる」という内容の手紙を木戸に送るなど策略を練った。さらに、三条や岩倉に西郷は征韓論者だと扇動した。三条・岩倉は危機感を抱き、大久保に政府復帰・参議就任受諾を泣きついた。大久保説得は約三週間も続き、あまりの粘りに、西郷との対立を避けていた大久保も根負けして承諾してしまう。伊藤の策に多くの者が踊らされたことによって、大久保は西郷を政府から追放した立場に立ってしまった。 伊藤は藤原鎌足のような策士の役割を演じてしまったのだ。

 さらにその後、独裁専制者の立場に立ってしまった大久保は、鹿児島に帰った西郷を追い詰め、西南戦争を引き起こさせた。西郷は数と武器に勝る政府軍に追い詰められ、そこで自害する。入鹿が鎌足に踊らされて、山背大兄王子を自害に追い込んだようにだ。やがてその大久保も明治十一年に暗殺された。蘇我入鹿が中大兄皇子に殺害されたように・・・・。再び日本の歴史は、分裂に向けて転がり落ち始める。

 大久保の死後、伊藤は藩閥政治の中心人物となり、明治十五年にドイツに旅立ち、憲法学者の講義を受けてきた。六年後に枢密院が新設され、伊藤を議長として憲法草案の審議が続けられた。こうして明治二十二年に大日本帝国憲法は発布され、日本は立憲君主制の国家となった。つまり新政府が分裂してしまった結果、伊藤は鎌足と不比等の両者と同じ道を踏むようになったのだ。これで日本は六百年以降に展開した千二百六十年の歴史を再び繰り返すことになる。それも百二十六年に圧縮して・・・。武家社会が日本に究極の分裂をもたらしたように、日本は軍事国家となりアジアに分裂をもたらすようになる。それは、東洋の豊かな精神世界を破壊する魔界の母の国としての出発であった。まさに、魔界の母性の血統が結実したのだ。


30.出羽三山(蜂子皇子)がつくった霊的な縁

出羽三山の羽黒山・湯殿山・月山の麓に鶴岡市が広がっている。江戸時代末期、このあたりは庄内藩と呼ばれていた。

「庄内の人々は、交通も不便な時代に、千里の道も苦にせず来鹿(鹿児島)し、西郷隆盛という大鐘を、それぞれの撞木で気迫をもって叩き、その音色の一つ一つを心で聞き、学びとったものが、『南洲翁遺訓』となって結晶した。」(南洲は西郷隆盛のこと)この記述は新人物往来社発刊の歴史読本一九九五年一二月号の西郷特集のなかの一文である。庄内藩は奥羽越列藩同盟の一員として西郷ひきいる政府軍と戊辰戦争を戦った。幕府側として最後まで戦ったが、明治元年九月、政府軍に降伏し軍門に降った。薩摩藩邸を焼き討ちしたこともあり、厳しい処罰が下ると庄内藩は危惧した。しかし、西郷は寛大な処置をとる。庄内の人々はこれに感激し、西郷に対する尊敬の念を深め、その指導を仰ぐようになるのである。

明治三年、政府の最高指導者となった西郷は、庄内藩(大泉藩と改称)が月山山麗の開墾の大事業を始めた際、国有地の払い下げや資金の世話などを援助した。このことに対して大蔵省から嫌疑をかけられたが、西郷は説得し納得させたのだ。

明治十年、西南戦争で政府軍に城山に追い詰められた西郷隆盛と戦いをともにした庄内の藩士がいた。彼らは西郷とともに果て、南洲墓地に眠っている。

前庄内藩士酒井忠篤は、集録された西郷の功業の底にひそむ深い根『南洲翁遺訓』を、一千部印刷に付し、翌明治二十三年一月十八日出版した。そして、西郷の盛徳を天下に広めるため、伊藤考継・田口正次は東京を中心に、三矢藤太郎・朝岡良高は中国から九州にかけて、富田利騰・石川静正は北陸から北海道を行脚して、遺訓一巻を頒布したのである。(歴史読本から)

『南洲翁遺訓』とは庄内藩の藩士たちが西郷から学んだ「敬天愛人」の思想である。西郷は孔子と朱熹(しゅき)の教えに傾倒していた。朱熹は朱子学の目的を「人欲を去って天理をつくすことである」と説いていた。天理とは釈尊が説き、空海が悟った宇宙に偏在する普遍の法に共通するものではないだろうか。なぜ、西郷が空海の立場に立つ使命者として悟るようになった思想を、かつては敵であった庄内藩の藩士たちが命がけで全国に伝えなければならなかったのか。出羽三山がつくった霊的な縁(えにし)としか言いようがないのではないだろうか。蜂子皇子は本来なら崇俊天皇の後継として、聖徳太子と共に和の国造りの中心を担う天皇であった。父・崇俊天皇が殺害されることにより、東北の地に追われることになるが、聖徳太子の支えもあり、出羽の地より新たな国造りを志していた。神の願いに叶う国造りが、いかに難しいものであるかを知り尽くした蜂子皇子である。西郷の心情を誰よりも理解し、それを残そうとしたとしても不思議ではない。

31.世界を抱きとめる母性の国の起点を残す為に・・・

『南洲翁遺訓』が出版された明治二十三年(一八九〇年)当時の日本は朝鮮に進出し、それまで朝鮮に多大な影響力を持っていた清とぶつかり、一八九四年の日清戦争へと突き進んでいくさなかであった。日本が軍国主義へと傾斜しつつあった頃、庄内藩士たちは敬天愛人の思想を携えて、何故に全国を回らなければならなかったのか。

日本が朝鮮支配を決定的にし、世界に分裂をもたらす悪の母国としての基盤を確かなものにしつつあった時、和をもたらす母性の心情の土台を残そうとした天の勢力が、か細いながらもまだあったということだ。

西南戦争という十字架に架けられた西郷は、ついに何者をも恨まなかった。ただ一人、天と同じ境地で、日本を抱きとめていた。その変わらぬ慈愛の心情が、かつては敵として闘った庄内藩の藩士たちを動かし、明治二十三年「南洲翁遺訓」を出版させ、敬天愛人の思想を全国に広めるに至らしめたのだ。

やがて、西郷の霊的な魂の勝利は地上界に形として現れる。明治三十年、上野公園に西郷隆盛の銅像が竣工された。上野公園は戊辰戦争の地であり、もとは羽黒山が末寺となった天台宗寛永寺の敷地であった。こうして西郷隆盛は日本国民に記憶される人物となった。 この出来事は、空海を象徴する西郷が、最澄を象徴する天台宗寛永寺に支えられ立つということを意味し、過去の歴史の二人の分裂を霊的には元に返し、新たな出発点に立ったことを意味する。

これにより、霊的に見たならば、日本の歴史を動かしてきた国家次元の使命者たちが打ってきた天界の布石を、細い細い糸でつなぎとめたことになるのだ。魔界からの心の勝利のための戦いの最前線を求めて、西郷の魂は空海、聖徳太子の願いとともに「南州翁遺訓」という形になり、日本全国に旅立ったのだ。機会が来たならばこの日本の地が、世界次元で人類救済の魂の戦いのための最前線に並び立つように・・・・。実は、このことを叫ぶために、長い長い回り道をしたのかもしれない。いや、回り道ではない。私も、読んでくれている人も、知らぬ間に天使に導かれて、確かに足跡を刻んだはずだ。
 


 
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