10.第三次抗争期(逆転に次ぐ逆転)−明治維新へ −     目次へ   前へ  次へ
 

13.大政奉還建白書
 西郷は長州と同盟を組むべく、坂本龍馬を密使として長州の木戸孝充へ送る。その龍馬の努力により一八六六年一月二一日、京の薩摩藩邸で西郷と木戸は会見し、密約が結ばれ薩長同盟が結ばれた。その内容は薩長が協力して幕府に対抗することを当面の目的とし、将来あらたな国家を構築しようというものだ。その後、幕府は軍事力を用いて長州藩を処分することを決定した。六六年六月七日、幕府軍艦の砲撃で交戦がはじまった。長州軍優勢で戦いがすすむなか、第十四代将軍徳川家茂が大阪城中で病没した。将軍の死を理由に幕府は交戦を停止する。
 この年の一二月五日、徳川慶喜が第十五代将軍となり、25日には孝明天皇が病没した。年が変わって一八六七年一月、明治天皇の践祚の儀式がとりおこなわれた。徳川慶喜の幕府は孤立していたが、薩摩と長州は新しい行動を起こすきっかけがなかった。この時期、土佐藩の後藤象二郎によって坂本龍馬発案の大政奉還運動がすすめられた。ここでの大政とは日本全国を統治する権限というほどのものである。将軍が天皇に大政を奉還する。その後、天皇のもとで諸侯会議を創設して政局を運営する。これが土佐藩の将来に向けての構想であった。
 後藤は坂本の仲介で西郷・大久保と会見し、一八六七年六月に薩土盟約が結ばれた。盟約は結んだものの、西郷も大久保も大政奉還運動は失敗するだろうと判断しており、その失敗を機として討幕の兵をあげることを決意していた。一〇月三日、土佐藩は大政奉還の建白書を提出した。徳川慶喜と幕府首脳部は大政奉還しても、軍事、経済の面で諸藩に対する徳川の優位はゆるがない、諸侯会議での主導権を確保できる、と判断していた。

14.王政復古大号令

 この頃大久保と公卿の岩倉具視との間に連絡がついた。岩倉は熱心な王政復古者である。薩摩藩は岩倉の働きで討幕の密勅を入手したが、この密勅は書式が不備で偽勅の疑いがある。密勅を察知した慶喜は討幕の先手を打つべく、一〇月一四日、土佐藩の勧告に応じて大政奉還を敢行した。しかし、朝廷には国政運営の用意もなければ能力もなかったから、政権を返還されても戸惑うばかりであった。結局、慶喜に外交事務をふくむ当面の政務を再委任することになる。慶喜の大政奉還の大博打はまんまと成功したかに見えた。
 してやられた薩摩藩は軍事力を集結して巻き返しを計ろうと、西郷、大久保はその準備のために帰還した。一〇月二一日、討幕の密勅は取り消され、事態はますます慶喜に有利に進行した。引くに引けなくなった薩摩藩はクーデターでいちかばちか強行突破する肝を固めた。土佐藩、越前藩、芸州藩と尾張藩がこれに加わったが、長州藩はまだ入京を許されていなかったから参加できなかった。政変の筋書きは岩倉と大久保がひそかに作成した。一二月九日、薩・土・芸・尾・越五藩の軍隊は突如、御所を封鎖し、親幕派の二条摂政や朝彦親王を締め出して、岩倉が幼い明治天皇の前で王政復古大号令を読み上げた。すなわち、摂政、関白、征夷大将軍などを廃止し、代わりに総裁、議定、参与の三職からなる新政府を発足させると宣言したのである。

15.二つの中央政府
 総裁は有栖川宮熾仁親王、議定には公家とクーデター参加五藩主または前藩主、参与には公家と五藩各三名が任命された。薩摩藩からは議定に島津茂久(忠義に改名、久光の長男)、参与に西郷、大久保、岩下方平が就任した。そして当夜の小御所会議で慶喜に辞官、納地を命じることが決まった。慶喜は大政奉還の逆手を取られ、幕府の正統性、合法性を否認されて政治的に敗北せざるをえなかった。

こうして京都には天皇の権威を擁した王政復古政権が誕生したが、旧幕府も依然として全国支配の実力を保持していたから、日本には二つの中央政府が並立する形となった。前者を天皇政府、後者を徳川政府と呼ぶことにする。天皇政府には入京を許された長州藩も加わった。一方、慶喜はトラブルを避けるために退京して大阪城に移った。諸藩の大勢は徳川政府と公議政体派の側に傾いたので、王政復古派はしだいに孤立しクーデターは尻すぼみに終わるかに見えた。
 西郷はジリ貧状態を脱却するには戦争に訴えるしかないと肝を決めた。しかも、政治的に有利に運ぶために先方から手を出させようと計った。そこで江戸薩摩屋敷に潜伏していた相楽総三ら浪士に江戸攪乱工作をやらせた。西郷の挑発に引っかかった慶喜は、薩摩藩討伐を唱えて軍隊を京都に向けた。

16.天皇政府軍の勝利
 戦力は徳川政府軍側が断然優勢であった。兵力は三ないし五倍であり、天下の名城大阪城を根拠にし、江戸からフランス式新鋭軍隊の増援を期待できる上に、大阪湾には東アジア最強の徳川艦隊が控えていた。普通に戦えば天皇政府側の敗北は必死であった。西郷も敗戦を覚悟し、そのときは天皇を中国山地に移してゲリラ戦で抵抗するとの作戦計画さえ立てていた。一八六八年一月三日、北上する徳川政府軍は京都郊外の鳥羽、伏見で薩摩藩、長州藩の防衛線と激突した。緒戦は待ち伏せ側が優勢だったが、まだまだ勝敗の行方は分からなかった。
 ところが四日、天皇側政府軍の前線に「錦の御旗」が翻ると、慶喜は朝敵にされたとショックを受けて戦意を失い、死闘している部下を見捨てて江戸に逃げ帰った。水戸家に育った慶喜は光圀にはじまる水戸学の尊王論のとりこになっていたのであろう。この「錦の御旗」は岩倉と大久保によって密造されたものであった。主将が戦線から離脱したので、徳川政府軍は総崩れになり、天皇政府軍は思わぬ勝ちを拾った。
 一月七日、天皇政府軍は徳川慶喜征討令を発し、二月九日、総裁・熾仁親王を東征大総督に、一二日、西郷隆盛らを大総督府参謀に任命し、一五日に進発した。 一方、江戸に逃げ帰った慶喜は抗戦か降伏かを迷ったが、結局、大勢は去ったと観念し退城謹慎して恭順の姿勢を示した。そして慶喜は薩摩の西郷や大久保に太刀打ちできるのは勝海舟しかいないと考えた。

17.江戸城総攻撃
 勝は六七年一二月末に、諸官の嫌悪甚だしいと聞いたことから退職を乞い、「憤言一書」を呈して、天下の大権は公正に帰すべきことを論じていた。その勝が翌年一月二三日に陸軍総裁、若年寄次席となり全権を帯びるようになった。
 勝は内乱に乗じた外国の干渉を恐れ、まず幕府とフランスのつながりを切った。それから、さまざまなつてをたどって、慶喜の降伏を受け入れて寛大に取り扱うように嘆願したが、天皇政府側は強硬であった。江戸城総攻撃は315日に予定された。
 そこで、旗本の山岡鉄太郎(鉄舟)は勝の手紙を携え、決死の覚悟で駿河の大総督府を訪ね、参謀の西郷に慶喜の真意を説明して降伏条件を協議した。ようやく講和交渉の道が開かれ始めた。
 勝は講和への布石を打つとともに、交戦となった場合の戦略も整えた。
 官軍の戦略は東海、東山、北陸三道を進んできた兵が江戸に入ると、その後方の町を焼き払って交代できないようにし、前へ前へと進むしかないように駆り立てる方針という。江戸市街は焼け野原となって、罪もない民衆が何百万死ぬか分からない。
それにたいして勝の戦略も、官軍進撃の直前に市街を焼いて、その進軍を妨げる焦土戦術であった。

18.江戸城無血開城
 勝は火消しの親分にゲリラ戦を依頼する。親分は博徒ややくざなどの顔役に声をかけゲリラを組織した。勝の合図があればいっせいに江戸に火をつける。ゲリラ戦で官軍をあらかた片付けてから、大鳥圭介ひきいる正規軍五千人が出動して、官軍に対抗しようというのが、海舟の作戦である。
 そして戦火の中を逃げ惑う女、子供、年寄りを先に房総の漁船で救出し、木更津方面に逃がすというのが、第二段の作戦である。
 三月一三日、西郷は勝の依頼を受けて、江戸高輪薩摩藩邸において勝と会見しようとしていた。会見の前に西郷は薩摩の背後にあるイギリスの公使パークスの言を伝え聞いた。パークスは万国公法を楯にとって慶喜をかばっているらしい。
 西郷は勝と会見したが、ほとんど雑談で終わり改めて14日、再び薩摩藩邸で会見は行われた。旧知で尊敬しあった仲だけに心を割って話し、小異を捨てて大同につき結論を出した。江戸城の明け渡しが決まり、江戸は戦火を免れたのだ。
 四月二日、江戸開城。慶喜は水戸に退隠し、ここに徳川政府は消滅、天皇政府が日本唯一の中央政府の地位を確保するに至った。

19.第一次との比較・関係
 「第一次抗争期」における聖徳太子の「和の国」を創るための歩みは、思想的精神的な支柱を立てることから始まる。推古元年に四天王寺を建て、翌年には推古天皇に三宝興隆の詔をださせる。五九六(推古元年)から六〇〇年までは仏教興隆に心を注いでいるのだ。その土台の上で六〇一年から、具体的な政治改革に着手している。太子にとって最も重要な和のポイントは、蘇我馬子と推古天皇に和をもたらすことであった。この二人が自己の権力欲を超えて「和」するには、それぞれの心に潜む魔性を克服させなければならなかった。これが果たせなかったため、次世代となる山背大兄王・蘇我入鹿・中臣鎌足が分裂してしまう。だが、まだ地上における勢力圏のすべてまでは奪われていない「第一次抗争期」において、天界は巻き返しを試みる。

20.第一次の二度目の戦い
 太子が歴史の起点と定めた六〇〇年から二百年の後、桓武天皇が律令政治再建と仏教革新のために、最澄を唐に送った。最澄は同じ船で唐に渡った空海と、そして自らの弟子である泰範とともに、太子が果たせなかった使命を受け継ぐ重大な役割があったのだ。それは、桓武天皇とともに政権の核となる三者(最澄たちではない)の、それぞれに心の魔性を克服させ、自己欲よりも、民族全体の平和と幸福を優先できるようにすることであった。
 最澄・空海・泰範においては、宗教家として、自ら自身はもちろんのこと、他者においても魔性を克服する術を探し出し、悟りとして体感しなければならなかった。この三者の内で、もっとも重要なポイントを担っていたのは、泰範である。最澄と空海の、両者の弟子と言う立場で、二人の間をつながなければならなかった。しかし、それが果たせずに、最澄と空海は決別してしまう。その結果、泰範個人としての立場は、推古天皇と蘇我馬子に和をもたらすことができなかった聖徳太子と同じ失敗した立場に立ってしまった。さらに、最澄・空海・泰範の使命全体から見れば、思想的精神的な国の支柱が立たなくなった。それで魔界が地上に横行し、策謀と闘争が入り乱れながら、再び権力は魔界の代理人となった藤原氏へと移っていくようになったのだ。

21.第三次における天界の攻勢
 最澄と空海が唐にわたった八〇四年から千年後、一八〇〇年以降には古学が完成域に達し、蘭学も盛んになり、国の思想的精神的な支柱を立てられる環境的条件がそろっていた。この環境圏に、最澄・空海・泰範が分裂に至った足跡を、分裂の危機に陥りながらも和に至らしめる三者が登場しなければ、天界の攻勢は実らない。その三者こそ、幕府の要人となった勝海舟であり、討幕派の代表となった西郷隆盛であり、勝を殺そうとまで思いながら、逆に弟子となった坂本龍馬である。やがて龍馬は、幕府内の立場が危うくなった勝海舟により、西郷の元に送られる。
 まさしく、天皇から公認された最澄に代わって、時代的代理使命を担った人物こそ勝海舟である。そして空海の位置に立ったのが西郷隆盛、泰範の位置に立ったのが、勝の弟子でありながら、西郷のもとで活躍する坂本龍馬ということになる。天界の天使や善霊たちが、過去の使命者が果たせなかった使命を、代理使命者として地上の人間に託したとしても、その人間が行動で答えなければ、他の人物を探し出さなくてはならなくなる。
 勝海舟が、殺意を持って近づいてきた坂本龍馬を改心させ、弟子とした時、この二人は使命者の位置を確立したと言っていい。



22.和をもたらす王者
 勝海舟の弟子となっていた坂本龍馬は、勝の意図により、倒幕という観点では敵とも言える西郷隆盛の元に送られた。龍馬は西郷の頼みにより活躍し、敵のように思いあっていた藩に和をもたらし同盟を結ばせる。さらに、大政奉還を発案し、ついには、幕府を代表する勝海舟と天皇政府を代表する西郷隆盛の間に、和をもたらす伏線を引いたのだ。そして、世界史上にも類を見ない江戸城無血開城となり、幕府は権力から身を引くこととなる。この三者は、見事なまでに最澄・空海・泰範の失敗を元に返した。中臣鎌足や豊臣秀吉は、敵の内部を分裂させ崩壊に至らせる策士であった。坂本龍馬はまったくその逆である。聖徳太子が和を願った聖者なら、坂本龍馬は和をもたらす王者である。

23.歴史的逆転劇
 さらに特筆すべきは勝海舟である。彼は殺意さえ持って近づいてきた坂本竜馬の心を変え、弟子にするまでになる。また、はじめて西郷と会見した時には、幕臣たちが保身に明け暮れる幕府の内情を暴露し、長州藩と手を握り、討幕の方向に進むことが有利であることに気付かせた。勝の頭の中には、天界が願ったごとくのシナリオが描かれており、他の使命者を、その方向へと導いているのだ。徳川幕府は家康が豊臣を滅ぼす時点では、聖徳太子父子の位置に立っていたが、幕府自体は魔界の牙城である。聖徳太子が描いた「和の国」への理想を打ち砕くため、魔界は藤原鎌足・不比等の行動を後押しして、藤原氏に都合のいい摂関政治を築き上げた。しかしそれは、武力による分裂抗争をもたらすための布石だったのだ。その抗争の頂点に立った者が、自己の欲望を実現させる牙城として作り上げたのが幕府であった。

 勝海舟は幕臣として、自由な行動はできなかった。その勝に代わって、勝の描いたシナリオ実現のために、我が身を賭して動いた人物こそ坂本龍馬である。鎌足はその叡智を自らの欲望の実現に使ってしまったが、海舟は己を無にし、その叡智を日本の未来のために駆使した。その海舟の思想に共鳴し、勝の思いを具現化させていったのが龍馬であれば、彼は鎌足に操られた入鹿や軽皇子の立場に立ちながら、二人がもたらした分裂とはまったく逆の「和」をもたらしたのだ。鎌足が軽皇子を動かし、山背大兄王を殺害したことによって、「和」の理想を地上から奪ったこととはまったく逆に、海舟は龍馬の働きによって、「和」の理想を取り戻し、西郷隆盛を山背大兄王の立場に立たせることができたのだ。

 つまり、勝海舟・西郷隆盛・坂本龍馬は、最澄・空海・泰範の果たせなかった使命を果たすとともに、藤原鎌足・山背大兄王・蘇我入鹿の分裂の歩みも、「和」によって償い、元に返すことができたのだ。
 

 
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