9.第三次抗争期(逆転に次ぐ逆転)−敬天愛人の芽吹き −    目次へ  前へ 次へ
 
4.明治維新の中心人物 
 一六七二年、徳川光圀によって大日本史編纂がはじまり、大義名分とか国家ということが強調され、日本国の主人は将軍ではなくて、天皇であるという認識がしだいに拡がっていく。尊王思想へと展開し、明治維新の原動力となっていく。江戸幕府公認で始められた大日本史編纂が、皮肉なことに自らを政権から引き下ろす端緒を開いてしまうのだ。尊王思想へと向かう人間たちの活動の背後に、天界と魔界の知略と知略の激しいぶつかりあいがある。神と魔が知略と知略で戦ったのでは、永遠の消耗戦になる。天界側が有利に立つには、地上界の人間の活動を支え、善の天使たちの活動を可能にする、霊的な愛の心情の原動力がなければならないのだ。山形の空海の「海」の字を受け継いだ即身仏は一六八三年の本明海上人に始まり、一八六八年(明治維新の年)の鉄竜海上人まで、キリスト教信徒の殉教が絶えて以降、まさしく日本の歴史の進展を支えるように愛の心情が捧げられた。最澄は唐から旧約聖書を持ち帰ったといわれるが、空海は景教をも学んだ上に新約聖書を持ち帰った。高野山の密教は、東洋化したキリスト教と言われるほどなのだ。その線上からも、鎖国によって殉教が絶えていこう、キリシタンに代わって殉教したといえる。即身仏ということでは山形を中心にして東北地方に見られるが、明治維新への動きを支える霊的な原動力となったのは、日本各地にさまざまな形であると思う。その中で、明治維新の中心的役割を担った西郷隆盛・勝海舟・坂本龍馬を、空海・最澄・泰範と同じ立場で立てられるようになった霊的な原動力は、山形の即身仏によるところが大なのだ。  
 
5.天保の改革
 天界の巻き返しを意味する尊王思想の高まりのさなか、一八六〇年に向けて、尊皇攘夷というナショナリズムに点火させるにいたるさまざまな出来事が起きてくる。一八三〇年代にはいると天保の大飢饉が起こった。東北地方を中心に日本中で多くの人々が飢え困窮した。幕府や諸藩が有効な対策を立てられなかった地域では、百姓一揆や打ちこわしが続発した。さらに国外からは、中国とイギリスが戦ったアヘン戦争の情報がもたらされた。これら内憂外患に対処するため、幕府と諸藩は天保の改革を行う。幕府においては、あまりにきびしい改革のために民衆の不満が爆発し、失敗に終わった。だが、大藩の中には藩政改革に成功し、幕末政局を主導する勢力となる藩が出現してくる。薩摩・長州・土佐・肥前藩それに水戸・越前藩などである。これらの藩では、軍事改革においても成果をあげ、雄藩として台頭していくようになる。
 
6.ペリー来航
 そのような状況の日本に、ペリーがひきいる四隻の軍艦が浦賀に出現した。一八五三年六月三日である。ペリーは幕府に対して軍艦の威圧を背景に開国を迫った。それに対して無為無策の幕府に、攘夷論者の猛然たる非難の声が上がった。老中・阿部正弘を中心とする幕府は従来の独断専制を捨てて朝廷に報告し、諸侯の意見を求めた。このことは、雄藩の政治参加意欲を高めることになった。

 一八五四年一月、ペリーは八隻の艦隊をひきいて神奈川沖に再び投錨した。三月三日、日米和親条約の締結を約した。阿部正弘は徳川斉昭(水戸藩主)、松平慶永(越前)、島津斉彬(薩摩)などを自己の周囲に集めて、事態に対処しようとした。かくして品川の砲台をはじめ、摂津湾沿岸の要地に砲台を築き、江戸に講武所、長崎に海運伝習所を設けるとともに、後に東京大学へと発展する藩書調所を設けて、洋書の翻訳と教授に従わせようとした。
 勝・西郷・坂本、見いだされる。ペリー艦隊の来航に、幕府が慌てふためく状況の中で、阿部正弘老中は、勝海舟を藩書翻訳御用に抜擢した。海舟は四十一名取りの小普請であるが、蘭学の知識と銃砲の技術を見込まれたのだ。
 また薩摩藩では西郷隆盛が藩主・島津斉彬に見いだされた。1854年に庭方役に抜擢され、島津斉彬候の側近として密事の伝達、下情についての調べ、政界裏工作などの相談にもあずかるという役についた。西郷もまた家格は低く、御小姓与(おこしょうぐみ)といって十の階級に分けられた城下士の中で、下から二番目にすぎなかった。土佐藩の坂本龍馬は黒船来航の時、江戸で剣術修業に励んでいた。一八五四年六月、ひとかどの攘夷論者となって土佐に帰った龍馬は、画家の河田小龍を訪ねる。小龍は龍馬に海外事情や近代文明の知識を教えるとともに、西洋に対抗する第一はまず産業を盛んにし、日本も黒船を持つことであると語った。勝海舟・西郷隆盛・坂本龍馬こそ、最澄・空海・泰範の分裂を元に返す使命者として立てられていることは、その三者の行動を追っていけば、理解できるだろう。

 一八五七年、阿部正弘が没し、堀田正睦が老中となったが、幕府独裁派と諸藩連合派の対立は統御できないまでになっていた。さらに将軍継嗣の争いが絡まり、いっそう複雑になった。翌年四月、大老となった井伊直弼の独裁がはじまり、自己の政策に反対する者への弾圧が始まる。安政の大獄だ。
 
7.使命への旅立ち
 一八六〇年三月三日、井伊直弼は登城の途中で水戸浪士を中心とする尊攘志士の手で暗殺された(桜田門外の変)。

 勝海舟はこの時、アメリカにいた。勝が艦長となった咸臨丸は一八六〇年一月十三日に品川を出帆し、二月二十六日にサンフランシスコに到着した。そこを出帆するのは三月十九日である。航海中のほとんどを勝は身体の不調を理由に個室ですごした。
「一八六〇年」、それは聖徳太子が歴史の基点とした辛酉の年六〇〇年から一二六〇年、歴史のワンサイクルがまわったのだ。

 勝は咸臨丸の個室で日本の行くべき道を考えた。勝自身は気付いていないが、その時間こそは天から与えられたものであった。深い独白こそは、姿なき天使との語らいであった。一八六〇年、その時西郷は菊池源吾と改名させられ、奄美大島へ潜居させられていた。安政の大獄のおり、幕府に追われる尊攘派の月照とともに心中を計り、西郷のみ助かったのだ。丸三年に及ぶ流人生活が西郷に与えたものは大きかった。一般庶民の苦しみに触れ、島の娘との結婚生活で子をもうけ、豊な人情に触れることができた。敬天愛人の思想の種が西郷の心に蒔かれた。坂本龍馬は一八六一年九月に武市瑞山の土佐勤王党に加盟し、尊皇攘夷の活動をはじめる。一八六一年十一月、西郷に召喚の命令が届いた。新築中の新居が出来上がり、親子三人が引越し、祝宴の最中であった。西郷は再び尊皇攘夷運動の修羅場に帰ることになる。一八六二年三月二十四日、坂本龍馬は脱藩した。瑞山は「龍馬は土佐に余る人物なれば、他国へ放してやったのだ。」と後日語ったという。
 
8.敬天愛人
 一八六二年四月、島津斉彬亡き後、藩政を握る弟・久光は西郷を呼び戻し、兵一千名をひきいて上洛し、公武合体運動を展開しようとした。「航海遠略策」を掲げ、朝廷や幕府間で勢いを振るっていた長州藩に、久光は対抗意識を燃やしたのだ。公武合体とは、諸外国の圧力に権力の衰えを見せた徳川幕府と、発言力を増してきた朝廷とが、難局を乗り切るために協力しようというものだ。勢力を増してきた雄藩にとっては、幕政参政権を要求するものでもあった。(これに対して尊皇攘夷の尊皇とは、討幕を意味するものであった。)その中でも、「航海遠略策」とは朝廷と幕府とが一つになって、外国に対して開国通商し、日本自体が力を付け、国威を上げていくことが重要だと主張するものだ。

 ところが西郷は、久光の計画に対してことごとく反対の立場を表明した。西郷は、久光の率兵上京に乗じて、尊攘派が行動を起こすだろうと見たのだ。そこで、じぶんが先に鹿児島を発ち、九州各地を視察し、下関で久光一行と待ち合わせることにした。視察した先で、予測したとおり、兵をあげようとする尊攘派の情報を得た。ただちに、西郷はこれを慰撫するため、久光の命令を無視して大阪に先行した。これが久光を激怒させてしまう。おまけに西郷が激派のボスのように振舞っていると、久光に讒訴する者もいた。

 六月一〇日、西郷は流罪となり徳之島に流される。さらに沖永良部島に流され、吹き晒しの牢に入れられる。牢は二坪ほどで半分は厠(かわや)。三度の食事とて冷飯に焼塩、それを真水で流し込む。絶望的な流人生活の中で、西郷は読書に励み、思索を重ねるようになる。彼自身は気付いていないが、それは姿なき天使との語らいの場であった。敬天愛人の思想は太い幹を天に向けて伸ばし、豊かな枝葉を茂らせていった。
 
9.天下ト公共ノ政
 六二年一〇月、勝海舟は軍艦奉行並に任ぜられていた。上京した龍馬は松平春嶽に勝と横井小楠への添状を書いてもらう。もし勝が世間の噂のように暴論(開国論)を吐き、政治に害をなしているとすれば、場合によっては刺してやろうという心積もりで龍馬は勝に会った。勝は地球儀を前にして世界の大勢とわが国のおかれた立場を説き、それへの対策として海軍と貿易の役割の重大性を指摘した。龍馬は勝の考えに感銘した。目からウロコが落ちた。そして、即座に海舟の弟子となった。横井小楠は幕末の天才的思想化である。正義人道と天理の法が思想の中心にあった。だから小楠は次のように語ったという。「もし自分を用いるものがあったなら、まずその使命を奉じて米国に行き、大統領に会って平和条約を結び、次いで各国に渡って同様の条約を結んで、世界の戦争を停止させたい。」(山崎正薫著・横井小楠伝・下)勝海舟の考えは小楠の思想と共鳴していた。小楠の言う「天下ト公共ノ政」を実現するためには、「一大共有の海局」を創らなければならないと考え実行していく。
 
10.公武合体と尊皇攘夷
 
西郷が沖永良部島に流されている間、尊王攘夷運動と公武合体運動は激しくぶつかりあい、いろいろな出来事がおきていた。
 六二年六月、島津久光は西郷を流罪にした後、朝廷より念願の幕政改革の勅許を受けることに成功し、兵を率い江戸に入った。そして、幕府に対して徳川慶喜と松平慶永の登用を求めた。幕府は慶喜を将軍後見職、慶永を政事総裁職に任命した。こうして久光の公武合体運動は成功をおさめたと思われたが、朝廷と幕府の協調がなる前に、両者とも尊王攘夷運動に埋もれていく。幕末の尊王論は下級の士族、郷土、浪人、豪農や豪商に受け入れられやすい思想だった。各地に尊皇派の志士が誕生し、たがいに交渉を深め、天皇の意思が攘夷にあると信じて、競うようにそれを実行した。
 朝廷の内部にも三条実美のように、尊王運動に協調する公家が生まれた。三条らは朝廷の意志を尊皇攘夷の方向に指導したのである。また、「航海遠略策」で幕府主導型の公武合体策を主張していた長州藩の方針は、久光の卒兵上洛の成功で面目が潰れてしまった。そこで長州藩は藩論を急展開させ、最も急進的な尊王攘夷論を藩是と定めるにいたった。朝廷の権威と長州藩の政治力、軍事力、経済力を背景として尊王攘夷運動は高揚を続けていく。久光が薩摩へ帰った後の京では、長州藩が著しく台頭した。長州急進派の藩士らは、一八六三年三月に加茂神社、四月には男山八幡宮に攘夷祈願のために天皇を行幸させるなど、自らの思うがままに朝廷を操っていたのだ。六三年、尊攘派の勢いにおされた幕府は、五月一〇日を攘夷期限の日と発表せざるをえなくなる。その五月一〇日、長州藩は下関海峡を航行中のアメリカ船を砲撃した。八月一三日、大和行幸計画が発表された。天皇自ら大和に行幸し、そこで攘夷の軍議を行うというのである。これが実行されたならば攘夷の戦争が全国におよぶ。幕府が反対すれば討幕の軍が起こるかもしれない。そのため、これを中止に導く策謀が進められた。
 
11.禁門の変
 一八六三年五月一八日に政変が起こった。薩摩、会津の兵が御所をとりまき、中で臨時の朝廷会議が開かれた。大和行幸の無期延期、長州藩兵の洛外への撤去等等が決定された。長州藩兵は三条実美ら7名の廷臣をともなって藩に帰った。政変ののち、徳川慶喜をはじめ有志大名が上洛し、松平容保とともに朝廷参与に任命され、朝廷会議に出席できる権限が与えられた。翌六四年一月、将軍が二度目の上洛を果たし、参与大名は老中会議に出席できる権限も得た。こうして参与会議が誕生したが、間もなく、対外方針決定の主導権をめぐって、徳川慶喜と島津久光のあいだに対立が生じ参与会議は崩壊した。勤皇藩と思われていた薩摩藩が幕府側の会津藩と同盟したことにより、評判が急激に落ちていた。その上に、参与会議も決裂してしまい、薩摩藩には危機感が漂った。そのような行き詰まった薩摩藩に「この窮状を救えるのは西郷吉之助しかいない」という運動が起こり始め、同年二月、西郷は赦免され鹿児島に帰った。三月には京都に姿を現し、藩の軍賦役(軍事司令官)、小納戸頭取として動き始める。西郷が薩摩の兵力を自由に操ることが出来る司令官に任命されたことは、西郷が薩摩藩の実質的なリーダーとなったことを意味する。七月、長州藩と尊攘派は失地の回復のため、参与会議の崩壊の後を襲うかのように兵を京に派遣した。七月一九日、御所に向かって進攻し、会津、桑名の兵と西郷ひきいる薩摩軍と交戦して敗れた。禁門の変という。
 
12.亀山社中結成
 

 一八六四年二月、勝は将軍家茂の許可を受け、神戸操練所経営の命を受けた。ここで海軍の人材を養成するのであるが、人材は幕臣のみでなく、龍馬をはじめとする土佐藩のほか、紀州、因州、備前など諸藩の者も加えられた。禁門の変後の九月一一日、勝と西郷の会見が実現する。西郷は会見により、どれだけ知略のあるやら知れぬ英雄肌合いの人物と勝を認めた。勝もまた、西郷に一目置いた。西郷は勝の話を聞いて、長州を敵として叩くことは不利であること、むしろ長州と手を握り討幕の方向に進むことが有利であることに気付いた。この会見こそ、四年後に実現される江戸無血開城の談判の伏線となる。勝は西郷に幕府の内幕まで打ち明けながら話した。そこまでしたのはおそらく神戸操練所の閉鎖と自分の罷免、処罰を予感していて、後につづく者を西郷らに期待したからであろう。そして、小楠の思想「公共の政」を実現できる政治力を西郷に見いだしていた。勝はつねに幕府の将来以上に、国の将来を考えていた。このような勝は、徳川幕府の権力の存続しか考えられない幕閣の首脳にとっては危険分子であり、勝の海軍塾となっている神戸操練所も危険な存在とみなされていく。六四年の一一月、勝は軍艦奉行を罷免され、653月には密貿易の疑いをかけられ操練所は廃止されてしまう。神戸操練所の解散により龍馬以下の塾生は、海舟のつてで大阪の薩摩屋敷に引き取られる。その後、龍馬は数日を西郷宅で過ごしてから長崎に落ち、薩摩藩の出資で亀山社中を結成した。
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